「推し」と恋愛

推し*1に向ける感情と恋愛感情は別物であるというのが私の持論である。

私が「推し」という概念を獲得したのは高校生の時だった。例えば同じクラスや学年の人に「推し」という言葉を用いるとき、私にとってそれは「恋愛感情ではないが強い好感を持っています」という意思表示だったし、今でもそういう区別をしている。

しかし、改めて自分のオタク遍歴と恋愛遍歴を遡ってみると、見事なまでに「恋愛」に傾いている時期と「推し」に傾いている時期が互い違いになっている。恋愛に苦しんでいた高校時代は、生活スタイルが変わって当時の推しだった嵐から少し離れていた(そして活動休止発表があって関わり方が少し変わった)時期だったし、アイドリッシュセブンにハマったときは恋人が受験生で、他に拠り所を探していたタイミングだった。考えれば考えるほど、「推し」を推す代わりのようにのめり込んだ好きな人や、恋愛から逃げるように没頭した「推し」がいて、これで「推しと恋愛は別物」というのはなかなか無理があるのでは?というところに着地した。

とはいえ、推しに向ける感情と恋愛感情はやっぱり違う気がする。どちらも「好き」ではあるが、推しと付き合いたいか、触れ合いたいかと聞かれたら答えはノー。できるだけ認知されずに近くで拝みたいのが推し。好きな人には自分に興味を持って欲しいし、好きになって欲しい。自分の生活を共有したいし、一緒に食事をしたり歩いたりしたい。でも、どちらも応援したい、幸せで健やかでいて欲しいと思うところはよく似ている。なかなか難しい。

感情の差別化が難しいのは、感情の分類がそもそも現実的ではないからだと思う。そもそも、何となく世間で共有されている「恋愛の好き」はあまりにも曖昧かつ限定的で、それにそぐった感情を抱く人は案外いないのではないだろうか。いたとして、そこに世間の「常識」の影響を全く受けない、自分だけの感情は存在しないのではないかと思う。そもそもそんな独立した感情は存在しないという気もするが。

感情で差別化できないのであれば、関係ならどうだろう。

簡単なのは圧倒的に「推し」との関係だと思う。相手がそれを生業にしている場合は特にそうで、「好き」をどうやって示せばいいか、最低限の選択肢が最初からある。テレビや雑誌を追いかける。CDを買う。YouTubeを見る。曲を聴く。ライブに行く。本人に還元される、推奨される「好き」を示すための行動というのは予めある程度用意されていて、なおかつそれをどの程度採用するか、あるいはどの程度の熱量で取り組むかというのはこちらに委ねられている。相手は私がいてもいなくても、応援していてもしていなくても仕事をしていて、勝手にそれを見て喜ぶことが許され、場合によっては歓迎される。なんて楽なんだろうと思う。*2

と同時に、私が熱心に応援しているときの方が、得られる喜びや感動は確実に大きい。つまり、リターンがちゃんとあるのである。応援しなくても相手に大きな迷惑はかからないが、応援していると嬉しいことがありますよ、という美味しい話。当たり前だが、美味しい話には裏があるもので、嬉しさが大きい分、嬉しくないことが起きたときの悲しみや喪失感も大きくなる。もちろん嬉しくないことの程度にもよるが、私はやっぱり基本的には嬉しいリターンの方が大きいのではないかと考えている。何はともあれ、「推し」とファンは相互関係にありながら、適度に責任から逃れられるwin-winな関係である(という都合のいい見方ができる)のではないだろうか。

恋愛関係はそうはいかない。「好き」と伝えることには責任と加害の可能性を伴う。相手は私に好かれるために生きているわけではないので、私の存在が厄介な場合もあるし、そういう場合の対処法も知らない。相手も「好き」でいてくれたとして、それが私の「好き」と寸分違わず合致することはまずないだろう。*3となると、交際するのであればその相手の「好き」をちゃんと見極める必要があるし、それときちんと向き合う必要があるということになる。相手もこのぐらいの気合いを持ってきてくれるとスムーズだが、なかなかそんな人はいないし、恋愛感情が混ざってくると冷静にそんなことを考えるのは困難なことが多いので、これを実現することはやはり難しい。

そもそも、人間関係を真剣にやろうとした場合、恋愛感情というのはノイズでしかない。相手の人となりを見極める作業が好きなところ探しになってしまうし、仲を深めるときも多少無理してでも相手に合わせようとしてしまう。最初にした無理はのちのち響いてくるし、見極めが甘いと後から嫌な部分が出てくることもある。そう考えると、恋愛感情を基に長期的な関係性を築くのは超非現実的なことのような気がしてくる。そもそも恋愛というのは一過性のもので、長く続ければいいというものでもないのかもしれない。

極めて個人的な話になるが、私は所謂恋愛体質というやつで、小学五年生のときから大学二年生になる今まで、「好きな人」がいない時期はほとんどなかった。気が多いというのでもなくて、一度好きになると割と長く引きずるタイプである。かつて好きだった人たちに対してどんな欲を持っていたのかはわからなくなってしまうが、好きだったところは覚えているし、幸せでいて欲しいと思っている。ただ、好きだった頃のように執着したり時間を費やしたりすることはできないので、たまに思い出す程度の存在感に留まっているし、もう「好きな人」ではないなと思う。

その点、歴代の「推し」は時間やお金のかけ方にばらつきはあれど、全員現役選手である。幼稚園の頃から「あらしのなかではまつじゅんがすき」と言っていたらしい*4し、小中学生のころに惚れたダンブルドアには未だに狂わされている。一昨年のプリキュアのまなつちゃんだって今も大好きだ。SixTONESのことも大我さんのことも、きっとずっと好きなままだと思う。

何が違うんだろうと考えたとき、その違いはやっぱり関わり方なんだと思う。好きなときに好きなだけ、好きなように関わることが許される「推し」との関係と、相手にある程度影響する/されることが避けられない=責任が生じる恋愛関係を比べたとき、私が得意なのは圧倒的に前者だ。「推し」と私の関係は片思いと似ているけれど、片思いよりも相互的で、肯定されやすいと感じる。だから、私にとって「推し」は関わりやすい存在で、長く関わりを続けやすいんだと思う。

あまり誇れることではないが、私はあまり自分の軸がないうえに怠惰な人間なので、推しも好きな人もいない生活だと布団から出なくなる気がする。何ならずっと寝ていると思う。だけど、好きな人や推しがいるとその数だけ私の内側と外側に視点が増えるので、見るものや知りたいことが圧倒的に増える。例えば、サッカー部の人が好きだったとき、熱心に読み込んでいた体育の教科書のサッカーの項目。好きな人に勧められて始めた世界地図パズル。推しが解説を書いているから買った本。推しが実写ドラマに出るからと読み始めた漫画。推しのせいで目に入るようになったうさぎやくまの形をした可愛らしいお菓子。推しグループのメンバーが出ているからと観に行った舞台。推しが歌っていて聴くようになった曲。推しの音楽をスマホで聴きたいから覚えたCDの取り込み方。そういう、彼らと出会わなければ知らなかったはずのものが私の中にはたくさんある。それがなくては今の私や生活は存在し得ないと思う。だから、私にとって推しと好きな人は基本的に代替可能な存在なのかもしれない。そして、どちらも存在しない状態では、入力情報不足で満足に動くことができないのかもしれない。

私の狭い視野や凝り固まった視線を外に向けてくれるのはいつだって私ではない人で、そうさせてくれる人には心の底から惚れ込んでしまう。面白そうな他人を追いかけて、同時にその視点を取り込むことで、私の人生は成り立っている。私の世界は、特別な他人の継ぎ接ぎによってできている。

私をワクワクさせてくれて、見たことのない景色を見せてくれる人しか好きになれない。そういう人だから、好きになるし、特別になる。そういう意味では、向ける感情こそ違えど、私の中では「推し」も「好きな人」も近いところにいるのかもしれないなと考えた。

 

 

 

 

(3619字)

 

*1:そもそも「推し」とは何なんだという話だが、今回はジャニーズ以外の人も含むので担当ではなく推しという便利な表現で書いてしまった

*2:「推し」の活動形態や規模によってはこういう無責任な関わり方は難しいのだろうと思う。そういう点で、ジャニーズという大きな組織に所属する人を推すのは気楽で、私のニーズとピッタリ合う

*3:そんな奇跡的なマッチングがあったとして、その2人がする恋愛は全然面白くないだろうと思う

*4:ただの面食い女児