見上げる背中

わたしが人生ではじめて好きになった芸能人は松本潤さんだ。嵐の中だったら松潤が好き、とずっと言っていたけど、たぶん最初のきっかけはそのお顔。好みの顔立ちのカッコイイお兄さんとしての「好き」でしかなかった。母親が嵐にハマってから、曲を聴いたり、ライブの映像を見たり、たまにドラマを見たり、そういう行動が自分の人生に入ってきたけれど、カッコよくて好き、以上に考えたことはあまりなかったように思う。それでも、意識せずとも、ライブ映像をはじめとした彼のつくるエンターテインメントはわたしの生活の中で確かにきらめいていた。そのきらめきに救われていたことに気がついたのは、嵐の活動休止が発表されたときだった。

嵐のライブが、曲が、番組が、こんなに自分の中で大きなものだったということに、そしてそれに気がついていなかったということに打ちのめされた。あの感覚を今でも覚えている。発表から休止までの間、ずっと見ていたカッコイイ嵐とダブるように、お仕事をする大人としての嵐が見えるようになった。改めてカッコイイなと思ったし、こんな大人になりたいと思った。

Voyageを見ながら、松本潤さんの生真面目さと、愛に溢れた仕事ぶりに惚れ直した。松本潤担当として二度目の生を受けたタイミングは、あそこだと思う。周りの人に愛され信頼されていて、お仕事に誇りを持っていて、手間を惜しまず、嵐といるとき、世界一かわいい顔で笑う潤さん。わたしの好きな人。

5×20は当たらなかった。嵐のライブが当たらないのは別に珍しいことではなかったけど、嵐が全員来れるようにとあんなにたくさん上演してくれてもなお入り切らないんだということに薄ら失望したのを覚えている。すべてが嵐の思い描くようになってほしかった。無理なことはわかっていても、そう祈らずにはいられないきらめきがあった。嵐は愛と信頼のチームだから、この世界がそれに相応しい美しいものであってほしいと思うことをやめられない。

嵐のライブが好きだ。光に満ちた、楽しくて楽しくて夢のような時間。わたしもいろんなライブコンテンツを見るようになって、好きなライブも楽しいライブもたくさん経験したけど、嵐のライブとその他のライブはわたしの中で違う箱にしまわれている。元々の倍率が高いのはもちろん、毎回4連で申し込んでいたこともあってか、チケットはなかなか取れなかったので、我が家では基本的に円盤でのライブ鑑賞が行われていた。今でもたまに行われている。電気を消してカーテンを閉めたいつものリビングが、夢の国に変わるあの時間がすごく好きだったのを覚えている。

運に恵まれてはじめて嵐のライブに参加したときのことも、幼いときの記憶がほぼないわたしにしてはよく覚えている。東京ドームの一番上の階、後ろから4列目くらいの天井席だった。ドームの広さにも人の多さにも圧倒された。みんな嵐が好きでここに来てるんだと思うと、胸が詰まった。こんなに遠かったら何にも見えないかも、と思っていたけど、めちゃくちゃ小さかったけど、嵐はちゃんと見えた。そこにいて、歌って、踊っていた。それから、みんなが持っているペンライトがきらきら光っているのが楽しくてしょうがなかった。自分の持っているペンライトの色がくるくる変わって、周りの人たちのそれと一体になっているのが嬉しかった。大好きな人の描いた景色をつくる一部になれるって、ものすごいことだ。潤さんが治めるあの時間に、また加わりたいな。あの満ち足りた気持ちを、もう一度味わいたい。

違う箱にしまわれているとか言っておいてなんだけど、わたしが今ライブが好きなのは、間違いなく潤さんのおかげだ。ライブに限らず、あまねくエンターテインメントにわくわくする気持ちや、楽しいことを素直に楽しむやり方を、嵐に、潤さんに、教えてもらった。ディズニーランドも、体育祭も、映画も、バンドのライブも、やることは違うけど、楽しむ気持ちを持っていくものであることに違いはない。わたしの人生の楽しいこと、その全ての根っこに嵐がいる。

エンタメが社会や生活から切り離されたものではないということを教えてくれたのも嵐だ。災害時には寄付を募って、大変な場所があること、困っている人がいることを広く知らせてくれて、楽しい時間を提供してくれる。嵐のそんな姿を見てきたから、エンタメの持つ力を私は信じていられる。不要不急、なのかもしれないけど、必要としている人も、役に立つ場面も、たくさん存在することを知っている。嵐が教えてくれたから。

※以下舞台「正三角関係」のネタバレが含まれます※

何とかチケットを取って、「正三角関係」を観に行った。生の潤さんに会いたかったのももちろんだけど、彼が参加を熱望してきたNODA・MAPがどんなものなのか知りたかった。

舞台という場をめいっぱい使って、観客もキャストも全部呑み込むような勢いで展開される物語、圧巻でした。花火という刹那的なものに執着し、プライドを持っている唐松富太郎という役を松本潤さんが演じているのが、なんだか嬉しかった。花火は、一瞬で消えてしまうけれど、その瞬間だけは大勢が同じものを見て、同じ気持ちになれる美しいもの。なくても生きていけるけれど、心を潤わせて満たしてくれるもの。花火師として花火をあげるその空を願い、信じようとする富太郎は子どものように無垢で、そんなことのために花火師としての腕を磨いてきたわけじゃないと怒るさまは大人の焦燥感と悔恨にまみれていて、その泥臭さから目を離せなかった。花火をあげるための火薬は奪われるのに、その技は利用価値のあるものとして求められ、殺人の罪を裁くかたわらで飛行機を攻撃する訓練をする。戦争の中で行われた殺人は、こんなふうに丁寧に裁かれることはない。こういう不快な矛盾を、軽やかに、でも克明に描いていて、最後の台詞で畳み掛けられる言葉が鋭くて、心に重たく残り続けてくれるような観劇体験だった。舞台装置も、衣装も、キャストも、無駄がないのに遊びがあって、2回、3回と繰り返し観たくなるような面白さがあった。個人的には、富太郎と結ばれない在良と、結ばれ愛されたグルーシェニカがどちらも長澤まさみさんだったのが好きだった。性格も真逆だけど、どこか漂う孤独感が共通するふたり。

少し脱線するけれど、わたしはポリティカル・コレクトネスと面白さは両立可能だと思っているし、もっというとポリティカル・コレクトネスを無視して面白いものをつくることの方が難しいと思っている。そしてメッセージ性や"正しさ"と、エンターテインメントとしての面白さがどちらもずば抜けているのが「正三角関係」だった。潤さんがこういうものをつくるカンパニーに携わりたいと思うのは、すごくわかる、と図々しくも納得した。

富太郎という人はあまりにも正直だった。こちらがたじろぐほどの我の強さ、人の笑顔を求めて自分の仕事をやり遂げようとするところは松本潤さんと繋がっていると思ったけれど、その発露が松本潤さんとは全然違うとも感じた。お芝居とはいえ、あんなに剥き出しで投げやりな潤さんは見たことがなくて、指先がびりびりした。今わたしは「ごくせん」を見ているのだけど、沢田慎の投げやりさは富太郎のそれとは違う。もちろん違う役で、歳もまったく違うので当たり前のことなのだけど。わたしは2024年にもなって知らない松本潤にふたりも出会ってしまった。この世界にはまだまだわたしの知らない潤さんがいると思うと、寂しいんだけど、どうしようもなく嬉しい。やっぱりこの人のことが好きだと思う。

尊敬する人は誰ですかと聞かれたら、松本潤さんと答える。どんな大人になりたいかと聞かれても、好きな芸能人を聞かれても、好みの顔を聞かれても、答えは同じ。わたしの原点は間違いなく潤さんだと思う。ここ数年、あと20年くらい早く生まれて、もっと大人になった状態で嵐を追いかけたかったなと思うことがたくさんある。嵐の歴史はあまりにも莫大で、知らないことも、天地がひっくりかえってもリアルタイムで目撃することが叶わない景色も多すぎるから。それでも、嵐の、潤さんの背中を見ながら育つことができた幸運を大事にして生きたい。彼らの仕事ぶりに憧れられる歳であることに感謝したい。今はそう思えている。

 

Come back to me

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