晴れの日

祖父が死んだ。

この二年くらいは病気や怪我でずっとどこかしらが悪くて、この半年は入院していたし、先生にももう長くないかもしれないと言われていたのに、知っていたのに、祖父が本当に死ぬことを全く想定できていなかった。わたしが近しい人を亡くした経験がないこともあると思うけれど、祖父は死と縁遠いパワフルでめちゃくちゃな人だったので、弱った姿を見てもまたあの元気な祖父に戻るに違いないとどこかで信じていたのだと思う。

祖父母の家はわたしの住んでいるところから近いわけではないので、頻繁に会う関係ではなかった。でも、産まれたばかりのわたしが時間を過ごしたのはあの家で、毎年必ず夏休みとお正月に帰る場所で、帰ればいつでも満ち足りた気持ちになれる場所で。その居心地のいい家は祖父が設計したもので、それもまた誇らしくて嬉しい要素なのだった。

ほんの数年前まで、祖父は仕事を続けていた。自宅から車で少し行ったところに事務所があって、夏休みにはよく連れていってもらった。お客さんと打ち合わせをしているところを見たり、パソコンでソリティアをさせてもらったり、近くのスーパーでアイスやお菓子を買ってもらって食べたりしたあの場所は、わたしが知らないうちになんとかクリニックに変わっていた。もうあの場所はないし、あそこに祖父はいない。当たり前のことがよくわからない。

祖父は車が好きだった。運転はちょっと荒かったけど、いろんなところに連れていってもらった。助手席に乗せてもらってお喋りするのが好きで、幼い頃はいつか私が運転する車に祖父を乗せられたら喜んでくれるだろうと思っていた。運転には適性がなさそうだから免許はとらないでおこうと決めたときも、祖父が運転できなくなることなんか考えていなくて、なのに気がついたときには祖父は運転できない体になっていて、あの車はガレージからなくなっていた。最後にあの特等席に座ったのはいつだっただろう。車にいつも置いてあった大きな丸い飴はどこで買っていたのだろう。

祖父とふたり、あるいは妹も一緒に三人で出かけるときは、何でも買ってもらえて、何でもやらせてもらえた。マクドナルドのLサイズのポテトも、ねるねるねるねも、初めて買ってくれたのは祖父だった。かき氷器とシロップを買ってくれて、かけすぎたら叱られると思ってそーっとシロップをかけるわたしに「もっとドバドバかけた方がええ」と悪い顔で教えてくれたのも祖父だった。祖父は冷たいものが大好きで、出先でソフトクリームの置き物を見ると絶対に自分の分とわたしたちの分を買ってくれたし、毎晩アイスを食べていたし、絶対お腹を壊したりしなかった。釣りが趣味なのに、刺身も寿司もそんなに好きではないという頑固な人だったけど、わたしが初めて美味しいと思ったお刺身は祖父が釣ってきた太刀魚で、そう言ったらすごく嬉しそうに笑ってくれた。ネットショッピングやテレビショッピングで絶対にいらないものをしょっちゅう買っては祖母に叱られていたけれど、わたしたちがいるときの方が叱られにくいから今のうちに買っておくんやと笑っていた。

わたしの結婚式では一曲歌うと豪語していたし、わたしとお酒を呑むのを楽しみにしていたのに、いざわたしが二十歳になったときはもうお酒は呑まなくなっていた。悲しくて悔しくて、お通夜でもお葬式でもたらふくビールを呑んで見せてあげたけど、祖父も呑んでいただろうか。

わたしが初孫だからか、祖父によく似ているからかわからないけど、とにかく祖父はわたしを可愛がってくれた。世界で一番、美人で賢いと褒めてくれる人だから、祖父の前ではいつも張り切ってしまう。病院にいなくちゃいけなかった体から抜け出した今ならいつでもわたしを見に来れるはずだから、ずっと張り切っていなくちゃいけない。困ったね。

祖父は握力の強い人で、事あるごとに握手をしてくれた。最後に会ったときでさえ、力が強すぎて手が痛いくらいの握手だった。祖父に負けないくらい強い力で、できるだけいい未来を、いい縁を、掴み取りたい。わたしが死ぬころには祖父は絶対なにか新しいことをしていると思うので、その前に報告できることをいっぱい作りたいと思う。そういう決意表明と、今の気持ちをより分けること、そしてそれを形にして置いておくために、この文章を書いている。

喪失感はどうやってもなくならないけれど、この喪失感と一緒に生きていけることは幸せなことだと思う。最強の晴れ男だった祖父が死んでからは雨続きだった。お葬式の日も朝は雷がなっていた。だけど、お収骨が終わって外に出たときは雲が開けて青空が見えていた。祖父があそこにいるんだと思った。雨の日は、あの日の悲しみを思い出すかもしれないけれど、お日様が見える日はいつでも、祖父の頼もしさを思い出すだろう。

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愛の花

愛の花

地べたを走る天使

今年の7月、アイドルマスターシャイニーカラーズのソロパフォーマンスライブ「我儘なまま」を見た。コミュは全然読めていないのだけれど、それでも各アイドルのパフォーマンスはそれぞれの色がよく表現されていて、終始感動と興奮の波の中にいた。Day1だけチケットが取れたので現地にいたのだが、好きな曲が前半に畳み掛けられてしまったので、幸せな処理落ち状態というか、あんまりまとまった記憶が残っていない。HAREBARE!!で泣いていたらわたしの主人公はわたしだから!が始まって涙腺がバグったことと、4階席から見たさらんちゃんが天使そのもののように輝いていたこと。誰よりも大きい声でコールしたかったのに泣いてしまったのが悔しかったこと。そのくらい。そのあとも断片的な記憶しか残っていないけど、それでもものすごく楽しかった。感想を話し始めると趣旨を見失いそうなので割愛するが、バラバラのソロ曲をどうライブの形にするのかという疑問に強すぎる思想でアンサーをくれた運営さんにはかなり感謝している。

Day2は配信を購入して視聴した。Day1との繋げ方と差別化が見事で、パフォーマンスは言わずもがな最高で、大興奮だったせいかこれも初見時の記憶があまりない。ただ、配信というシステムは素晴らしく、なんと1週間同じ映像が見放題なのである。そんなこと誰でも知ってるよというツッコミはちょっと御遠慮いただきたい。映像コンテンツが苦手な私は、配信ライブを購入しても3回以上見ることがほとんどなく、あまりその恩恵をめいっぱいかんじたことがなかったのだ。我儘なままは、通しで見たのは2回程度だったけれど、それでもちょこちょこ観続けて各曲5回ずつぐらいは見たんじゃないだろうか。アーカイブ期間の終わりごろには、Day1も買っても元取れたんじゃないかと気がついて後悔するくらい、リピートし続けていた。中でも一番繰り返し見たのは、福丸小糸さんの「わたしの主人公はわたしだから!」。

わたしの主人公はわたしだから!

わたしの主人公はわたしだから!

  • 福丸小糸 (CV.田嶌紗蘭)
  • アニメ
  • ¥255

私はイルミネが好きで、始めたのもイルミネが好きな予感がしたからなのだが、WINGを読んでいたときに別枠かつ個人で気になったのは福丸小糸さんだった。WINGの最終話である「ここにおいでよ」より画像を引用する。

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「アイドル」という存在を、概念を、まるごと肯定してくれるアイドルだと思った。頑張ってる人を見て、応援したくなる。元気をもらう。そういう要素は、時に軽んじられるものだと感じる。だけど、それの何が悪いというのだろうとずっと思ってきた。小糸ちゃんは、最初から「アイドル」になりたかった子ではない。なのに、ステージに立って、ここがわたしの居場所になるかもしれない、それが人の居場所になるかもしれない、そんなことを感じてくれるんだと思ったらなんだか泣けてきて、このアイドルのことが好きだと思った。この子が歩いていく道を見たいと思った。

Day2の「わたしの主人公はわたしだから!」のパフォーマンスを繰り返し繰り返し見ながら、このコミュのことと、それを読んだときの気持ちを思い出していた。

小糸ちゃんのことは大好きだし贔屓している自覚はあるけど、推しという感覚とは少し離れていると思っている。図々しいこと承知で言葉にするなら、小糸ちゃんは、私と似ているところがあるのである。大好きな本の主人公だったらもっとそつなくできるのにと思う気持ち。よゆーで何でもできて、憧れられちゃったりするような人になりたい気持ち。背伸びしても絶対に届かないところがあるってなんとなく感じてしまう気持ち。めちゃくちゃ関係ないしどうでもいいことだが、身長もピッタリ同じ。もっとすらっと、大人っぽく。そういう気持ちと、自分との間にあるギャップが苦しい気持ちに、痛いほど覚えがある。

でも、小糸ちゃんは私と違って、転んでも転んでも走り始めるのだ。居残り練習もするし、勉強だって諦めない。誰よりも努力できる才能を持って、それをちゃんとめいっぱい使える人だ。持ってるものが少ないなら、人3倍くらい積み重ねて追いつこうと懸命に走れる人だ。それに、ものすごく励まされている。すぐに辞めたり諦めたりする言い訳を探して座り込む私の重たい腰を止めてくれるのは、小糸ちゃんなのだ。

遅刻しているときに、せめて1本でもはやい電車に乗ろうって走れるようになりたい。そのくらいの、小さな小さな努力すらできない私の、足を軽くしてくれるアイドル。それが、私にとっての小糸ちゃん。私は頑張ったって全然カッコよくなれないって思うけど、それでも、頑張ってる小糸ちゃんはキラキラしてるから、もうちょっと踏ん張ろうかなって思わせてくれてありがとう。

小さな羽根を背負って歌って踊って、できるだけたくさんのお客さんの近くに行こうと走る姿を、ずっと覚えていたい。その羽根では飛べなくても、あれは紛れもなく天使だったと思うから。地べたを、自分の足で走る天使が、私を救ってくれるんだってこと、言葉にして残しておきたいと思ったので、このブログを書いている。小糸ちゃんのお誕生日を祝う言葉に替えて、自己満足の駄文だけど、これが私なりの愛の言葉だということにしてほしい。小糸ちゃん、大好きだよ。いつもいつも、ありがとう。

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大ファンだからね!!!!!!!

 

 

2023.11.11

喜怒哀楽

昔から、私は怒るのが上手でない子供だった。走ったり食べたりするのが遅いのと同じように、嫌なことを見たりされたりしたとき、それが怒りに結びつくのが遅いのだ。遅すぎて、感じた怒りや苛立ちを言動に繋げるところまでたどり着かないことが多かった。今でもその傾向はあって、「穏やかだよね」とか「怒らなそう」とか言われることが多いし、そういう印象に特に違和感はない。実際そこまで頻繁に怒りを見せることはないタイプだと思う。

高校生になったあたりまでは、それを自分の長所だと捉えていた。怒らない、イライラしないことは私にとっては一点の曇りもない「良いこと」だった。怒ったって何も意味がないし、落ち着いて穏やかに話ができる人の方が絶対いい。そういう感じ。

高校生のとき、自分が先導してやっていたプロジェクトがあった。詳細を書くとただの恨みになってしまうので割愛するが、勉強をほったらかして全てを注いできたそれをチームメイトの1人に乗っ取られて、最終的に私はそのプロジェクトを抜けることになった。そのとき私ははじめて、世の中には冷静さを捨ててでも主張すべき怒りがあるということを知った。フェアに、穏やかに話し合おうという態度が通用しない相手がいることを知った。誰も傷つけず、穏便に「大人」に済ませようとした結果、自分が挫けてしまった。

「怒っても伝わらないから穏やかに」というもとの方針が全く間違っていたというわけではないとは思うのだが、「話せば伝わる」という前提がそもそも甘かったのだと気がついた。話が伝わらない相手や、そもそも聞く気がない相手がいることを想定できていなかった。場の空気やプライドなんかをぶち壊してでも、主張すべきことがこの世にはあるのだと思った。だけど、使ってこなかった感情はすぐには出てこないし、動きも鈍い。私が自分のモヤモヤを「怒り」と認識するまでも随分かかったし、それを人に話せるところまで持っていくのにも長い時間がかかった。乗っ取った相手が憎いとはっきり言えるようになるのにも、時間がかかった。

誰とでも仲良くできて穏やかな「いい子」の私はしぶとくて、今でも脳の片隅で「そんなにイライラして恥ずかしくないの?」「怒ったってしょうがないのに」と茶々を入れてくる。だけど、人の悪意を目の当たりにし、醜い歴史を知っていく中で、少しずつそうではない私も強くなってきた。世の中には、黙って微笑んで見過ごしてはいけないことがあるということ。私ひとりが声をあげても変わらないかもしれなくても、私にはそれに怒りの声をあげる権利があるということ。社会の一員として、学ぶべきことや、担うべき責任があるということ。もちろん傾聴の姿勢は大切だけど、その前段階に怒りのエネルギーが活躍することも少なくないはずだ。残念ながら、この世界には話を聞かない人がたくさんいる。

今でも怒るのは苦手だ。シンプルに疲れるし、自分が悪いことをしているような気がしてくるし。でも、悪いことじゃないはず。負の感情という表現は「よくないこと」というニュアンスなのかもしれないけれど、引き算だって必要だ。ファッションもメイクも引き算が流行りらしいし、負の感情ももっと大っぴらに主張してもいいんじゃないかと思っている。だって、この世界には変えなくてはいけないことが山ほどある。

正直、もう何をしてもダメなんじゃないかと感じてしまうことも多い。この世の中がマシになることなんてないのかもしれないと思うこともある。だけど、私はどうしてもこの世界を捨てたくない。

ステージのきらめきも、世のため人のために最善を尽くそうとする気持ちの美しさも、歌の力も、笑顔のあたたかさも。アイドルが、タレントたちが見せてくれたものは紛れもない本物で、私の中にあって、それが私とこの世界を繋いでいる。

エンターテインメントに救われ続けているからこそ、その影で行われてきた卑劣な行動と、それを許してきた構造を許せない。事務所の杜撰な体制も、マスメディアの怠慢も、人権意識の乏しい世間も、黙り続けてきた自分自身も。

風通しがよくて、きちんとタレントを守れるような構造を作ってほしい。信頼出来るプロにメンタルケアをしてもらえるような、労働者としての権利が主張できるような、ハラスメントを許さないような環境。一朝一夕に実現できることではない。頭をすげ替えたところで根付いた体質は変えられない。だからこそ、現状を正しく把握して、確実な改善を図ってほしいと思っている。影響力のある事務所だからこそ、適切な対応ができればそれは良い前例になるはずだ。人権の軽視、性加害の矮小化、被害者に負担をかける制度、ホモフォビア。我々が抱える社会問題が絡み合った問題で、私たち全員に関係があることだからこそ、ファンとして、社会の一員として怒りを忘れたくない。

今の事務所の対応は不十分で、関係各所の対応も不十分だと思う。タレントのケアがなされないどころか、矢面に立つ役職に付かせていることも、事務所側の人間としてコメントを喋らせていることも許せない。ゴシップとして扱おうとするメディアや世間も許せないし、事務所の悪い体質を踏襲して振舞ってしまうファンも許せないし、混乱しているファンにつけこんだり茶々を入れたりする人のことも許せない。ずっと怒っているけれど、どうしていいかがわからない。絶望してみたり、距離を置こうとしてみたりするけれど、どうしたって私は自担が好きで、自軍が好きで、彼らを育て、抱え、今なお彼らのアイデンティティの大きな部分を占めているであろう事務所のことを無視できない。

私は文脈と物語、それから矜恃を愛する人間なので、伝統としてブランドが確立されているジャニーズ事務所が好きだった。正直杜撰な事務所なのかもしれないと薄々思っていたし、事務所全肯定だったかと言われると全くそうではないが、それでもその看板を愛してきたことは事実だ。だからこそ、今からでもいいからまともな対応をしてほしいと、そうすればやっぱり好きだと思えるのにと思っている。身勝手に。今のところ、その道のりは険しいどころか、落石に落石を重ねて空すら見えないのだけれど。

タレントを愛すること、彼らを見て感動することには決して傷はつかない。私たちが観てきた景色すべてが穢されるわけではない。同時に、想像を絶する傷を負った人がいることを無視してはいけない。それは、ファンだからではなく、社会の一員としての義務だと思う。そして、ファンとして、私の大切なアイドルを守ってくれと声をあげようと思う。これが正しいかどうかはわからないし、実行できるかもわからない。今度の会見や、あるいはその先で、また意見や気持ちが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。私は今こうやって気持ちを保とうとしているよという、未来で挫けているかもしれない私への置き手紙のようなものでしかない。怒ることをやめないで。避けないで。その矜恃を捨てないで。祈るように、地面を踏みしめて確かめるような気持ちで今この文を書いている。

私のバイブル、アイドリッシュセブンから小鳥遊音晴社長の言葉を引用したい。まあまあ長いのだけれど、この数ヶ月杖のように体重をかけ続けてきた言葉なのでそのまま載せさせてもらう。

夢を追いかけるアイドルがいて、アイドルを応援するファンがいる。どこでも見かける、楽しい景色だ。だけど、傍から見ているほど、簡単で、単純な、楽しいだけの遊びじゃない。
楽しむために、たくさんの痛みも、いくつもの葛藤も、前向きな気持ちに変えていこうとしてくれるから、みんなが笑顔でいられる場所が生まれるんだよ。不安を乗り越えて、眩しいスポットライトを手に入れるのはアイドルだけじゃない。ファンだって同じだ。
あの光り輝くステージには、人を愛する優しさ、人を信じる強さ、そして、人を見守る賢さにあふれてる。
だからこそ、ライブのステージで、アイドルとファンはひとつになれるんだ。この日のために、僕らは頑張ったよねって。これは僕らのお祭りだって。あなたも、私たちも、とても素敵だって。これからも、よろしくねって、お互いを称え合っていけるんだよ。
君たちはアイドルで、ファンは歌う君達を待っている。本当に必要な約束は、それだけでいいんだ。

アイドリッシュセブン 4部11章3話「選び歩いた道」より

ここから、何がどう変わっていくかは正直わからない。ジャニーズがCMに出なくなるかもしれないなんて思ってみたこともなかった私にとって、今の状況は嵐の活動休止発表に次ぐ天変地異である。ショックなことだらけだし、それが理不尽なことだけではないことがなおさら哀しいし。だけど、私の根っこにあるエンタメへの信頼が損なわれないように。大好きな人たちとハレの行事に、また喜んで参加できるように。思いっきり楽しめる環境はもしかしたら遠いのかもしれないけど、やっぱり諦めたくないから。私は私のプライドをかけて、1ミリでもマシな世界になるように、怒りと共に生活していきたいと思っている。

わたしの箍

昨今の「推し活」ブームに乗っかって、「推しのために働いてる」「推しのことを考えたら頑張れる」といった言葉を目にする機会が増えた気がする。私は自分のことをオタクだと思っているし、推しがいないと上手く生きていけないタイプの人間だと思っているけれども、推しのために働いてる、わけではない。「推しのために」という言葉にどうしても引っかかりを覚えてしまう。

私は実家住まいの学生なので、アルバイトをしなくても衣食住に困ることはないだろうと思う。じゃあなんでバイトをしているのかというと、それはひとえに趣味のためである。私の趣味は主にアイドルを追いかけることで、今は2次元と3次元それぞれひとグループを追いかけている。好きなアイドルのライブのチケットを手に入れる、ライブやイベントのための服やコスメや靴を買う、雑誌や本を買う、その合間に美味しいランチをする、CDを買う、それらをしまう収納を買う、映画を観る、課金をする。月々もらうお給料はそういうことに消えていく。友達とご飯を食べたり遊んだり、全くしないわけではないが、そもそも大半の友達が何かしらのオタクなので、先程つらつらと書いたようなことに吸収される範囲のものばかりである。でもやっぱり私は推しのためには働いてないし、これから先もそうするつもりはない。

CDとか公式写真、FCに払う「推しに還元されるはずのお金」は優先度が高い。CDを買い足したいなと思ったときにお金に余裕がなかったら、食事代を削るとか、買おうとしていたものを後回しにするとかして捻出する。自分のためだけの出費はそういうとき真っ先に後回しにされる。だけど、別に嫌ではない。高いコスメを買ったときより、CDを複数枚買ったときの方が清々しい。それはその数枚が自分の意思表示で、できることをやったという達成感があるからなのだと思う。推しのためではなく、自分のため。でも、これを「推しのため」と表現する人がいることも、わからないではない。

家族のために働いているという人がいる。今の私にはそれは足枷にしか感じられないけれど、もしかしたらこういうことなのかもしれないと思う。大切にしたい、できることはなるべくしてあげたいと思える相手がいるから働くしモノを買うし、声を上げる。自分のためだけに生きるというのは案外難しい。政治も、経済も、エンタメも、全部繋がっていて、それを通じて他者を意識して支えたり支えられたりする。それが社会生活で、人間の営みなんだろうなと思う。

話がとっちらかってきたけど、要するに私は推しに関連するコンテンツにお金を払うことで回り回って自分に手をかけているのである。この社会で生きていくのは私にとってけっこうしんどい。未来は暗いし、嫌なニュースばかりだ。だから、口実が欲しい。朝起きる理由。ちゃんと家に帰る理由。外に出る理由。買い物をする理由。推しを口実にして、私は自分の人生を楽しもうとしているみたいだと思う。直接の原因や対象が推しだとしても、結局それは自分のためなのだ。私が、推しに売れてほしい。私が、この曲を色んな人に聴いてほしい。そういう自分勝手な欲が、楽しい未来に繋がるんだとしたらハッピーだし、この世界も捨てたもんじゃないかもしれないと思える。推しが生きるこの世界が少しでもマシなものになってほしいと思うから、勉強するし投票にも行く。未来の同担が困窮することのないように。世間やファンダムの空気によって嫌な思いをしなくて済むように。私たちは誰しも1人では生きていけない。自己責任だなんだと喚くだけではこの社会は回らない。推しや、家族や、友人を通して他者に思いを馳せることこそが、社会の基盤になるのだろうと思う。

私は幼い頃からファンタジーが好きで、今でもかなり夢見がちなところがある。悪意を持った人がいることも、話してもわかり合えない人がいることも、わかっているつもりで未だに信じたくないと思っている自分がいる。悪意を目の当たりにすると落ち込むし、悪意なく無神経なことを言ってしまう人を見ても疲れる。自分のそういう側面に気がついて、さらに落ち込む。だけど、アイドルを追いかけているときだけは、綺麗事を信じていられるような気がする。

しんどいことがあったとき、推しを見て気を紛らわすことはできても、彼らが私の生活を助けてくれることはない。溜め込んだ課題はそのままだし、お金は増えていないし。何なら時間もお金も持っていかれることばかりである。だけど、際限なく下降していく私の気持ちを、何とか持ち直すきっかけになってくれるのはいつも推したちだ。口実になってくれるとさっき書いたが、私の生活のあらゆる場面で正気にもどる口実やきっかけになってくれる存在のことを、私は推しと呼んでいる。

推しのことは毎日大好きだけど、どんなに嬉しいことがあっても頑張れないことの方が多い。「ライブがあるから頑張ろう」「MV良かったから頑張ろう」と言い聞かせているだけで、ほとんどお祈りみたいな、ルーチンワークみたいなものだ。でもそれでいいのだと思う。私と彼らはどこまでいっても交わらず、重ならない。お互い、自分のために自分の人生を生きているからこそ、他人だからこそ、その繋がりにたしかな希望を見出せる。社会に繋ぎ止めてくれる。近しい他者を手に入れることは、生きるうえで支えになるものだと、実感させてくれる。

アイドリッシュセブン内の楽曲の歌詞を引用したい。

抱えきれない運命 支配するためみんな隣り合うんだね

「Incomplete Ruler」

この曲のサビで、「一つになれなくても 一人ではいられない」というフレーズが繰り返される。アイドルの夢や、未来や功績は私たちのものには決してならないけれど、一方でそれを隣から応援することは決して無意味ではないと思う。一人ではいられない私たちは、社会に生きる私たちは、そうやって生きていくしかないのだから。

推しのためには頑張れないが、自分のためだけにも頑張れない私は、推しを口実にして、自分のためになることをすることで、人生のバランスを保っている。

 

 

 

 

Incomplete Ruler

Incomplete Ruler

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花束の代わりに

SixTONESの姫は京本大我、という意見を少なくない頻度で見かける。私はそれが許せない京本担である。

いわゆる「姫ポジ」とは、メンバーに甘やかされていて、何をやっても許されるポジションのことをいう。私見だが、その扱いに無頓着である傾向も強い印象がある。愛されることにてらいがなく、メンバーからの愛を疑いもしない。本人もメンバーもただ普通にしているだけなのに、なぜか世間的には過保護になってしまう、みたいな。全部偏見ですが。

実際、スト5は京本さんの奇行や暴挙に大人しく従いがちだけど、それは姫を甘やかすそれとはちょっと違う気がする。そもそも違う時空で行われていることだから介入しようがないだけなのではないだろうか。一人っ子の彼が人生をかけて築きあげている世界はいろんな意味で計り知れない。きっと、他者の侵入を許すような空間ではないのだろうと邪推する。京本大我オールナイトニッポンにおいて、田中樹がほとんど無視されていることを思い出す。彼だけの世界はきっと混沌としていて、彼だけがそこにあるものを享受できるのである。そういう世界であることをよく知っているからこそ、そこに踏み入ることはせずに見守るのが彼らなりの愛し方であり、扱い方であり、接し方なのではないだろうか。

対照的なのが松村北斗さんであるように思う。北斗くんの世界は他者を必要としている気がする。他者の視点が前提となった世界を持つ人。それは他者の干渉を許すということではなくて、北斗くんの世界には対象がちゃんとあるような気がするのだ。相手が想定されている世界。だから、振りでもいいから聞いてほしいというスタンスになるのではないかと思う。私はそういう解釈で彼を見ているので、私にとってSixTONESの姫は松村北斗さんなのである。そもそも姫という呼称自体にいろいろ疑問もあるんだけど、やっぱり大我さんは姫じゃない。少なくとも私にとっては。

きょもほくの話をもう少し。このふたりは、他者の取り込み方も違うし、自分の保ち方も守り方も違う。お互いリスペクトはあるけど、真似はできないし、ベクトルが全く違うので比べることもできないから相手を超えることも相手に負けることもできない。そんな人たち。

私は、北斗くんの「見え辛さと興味の強さは時に比例する」という言葉がすごく好きだ。大我さんの入所日にブログで綴ったらしい*1この言葉には、彼のあたたかい憧憬が詰まっているように感じる。幼いころに見た背中を追いかけ、上手く接することのできない時代を乗り越えて、この言葉に行き着いて、それをファンに見せてくれた北斗くんのことが愛おしくて、素敵だなと思う。

入所日になにか文章を書こうと思い立ったときに、ぱっと連想したのはこの言葉だった。だからこれは、北斗くんのブログの二次創作みたいなものである。北斗くんの気持ちと自分の気持ちを並べるのが烏滸がましいことは重々承知の上で、やっぱり私はこれが書きたかった。花束を贈れないかわりに、精一杯の言葉を送りたい。この気持ちを、人は愛と呼ぶのだろう。

きょもほくの対比が好きだから姫ポジは逆!と思ってしまうのもあるけれど、結局私は彼が目指す姿はそれではないと思っているから姫呼ばわりが許せないだけなのかもしれない。彼は、生まれたときから色眼鏡で見られる運命で、ジャニーズに所属する道を選びながらミュージカルの世界に飛び込んで、誤解をされ偏見を向けられながらも自分を貫き通してきた強い人。最初からそうではなかったことも教えてくれるくらい強い人。「カッコイイって言われたい」とストレートに話してくれる、強い人。だからカッコイイし、憧れるし、追いかけていて楽しい。大好きなアイドルだからこそ、ずっと輝いていて欲しいと身勝手に願う。助け出される姫じゃなくて道を切り開く勇者だと、言いたくなってしまう。きっと自分の実力をまっすぐ見てもらえないことも多かっただろう人が、17年間守り通してきた自我を何より大事にしたいから。

お祝いブログというにはエゴイスティックでポエミーで話題が混在する文章になってしまったけれど、精一杯の言葉を綴ったので今日のところはこれでよしとする。

入所日おめでとうございますの気持ちを込めて。

*1:私がJohnnys Webに登録したのは6月なので直接目撃できていない。悔しい

team であるということ

ジャニーズを見ていると、内輪ネタってやっぱり盛り上がるんだなと思うタイミングが多い。今は亡きジャニー喜多川氏の話題に始まり、先輩グループの曲ネタやモノマネ、フレッシュJr. の黄色い衣装に怖い振付師さん、堀越高校。ジャニーズという概念は既に人口に膾炙しているし、ジャニオタ人口は相当膨れ上がっているとは思うが、それでも、こうした「内輪」ノリはどこまでいっても「内輪」のものだと感じる。

それを批判しようというわけではなく、ファンダムがどこまで大きくなっても「内輪」を保ち続けられるところこそがジャニーズの強みなのではないかという趣旨の文章である。

ジャニーズの「内輪」の核とも言えるのが、音楽サブスクリプションサービスに対する距離感だと思う。嵐を除いて、ジャニーズグループの楽曲はほとんどサブスクリプションサービスに解禁されていない。基本的に、ジャニーズの楽曲は、CDを買わないと聴くことすらできないのである。今は多くの公式YouTubeチャンネルが開設され、過去のMVやライブ映像も解禁されているが、アルバム曲やカップリングはほとんど聴くことができない。そもそも、YouTubeは音楽に特化したサービスではないので、そういった意味でもジャニーズの楽曲に対するハードルは想像するほど下がっていないのかもしれないと思う*1

サブスク解禁してほしい、と言うファンは多い。私も1年前くらいまではぼんやりと「はやくサブスク解禁すればいいのに」と思っていた。のだけれど、この1年弱SixTONESを追いかけていて、少し意見が変わってきた。

SixTONESはよく喋るグループだ。長いと評判のライブMCは特に象徴的だし、YouTubeの撮影もまあまあ押すことが多いらしい。ラジオという喋りに特化したコンテンツを抱えているのもそれに拍車をかけているように思う。あくまで憶測だが、ファンに見えるところでもそうでないところでも、同じようなテンションと分量で(それも恐らく意識的に)話し続けてくれる人たちだ。その結果として、「ひえおじ」「青ソニ」などの独自の愛称が生まれ、共有されていくことになる。まさに「内輪ノリ」である。知らない人は「ひえおじ」と聞いても何のことやらさっぱりわからないだろう。便利な呼称であることはもちろんだが、その「内輪」感が楽しくて盛り上がるからこそ、ここまで浸透しているのではないかと思う。

前述したのはラジオの話だが、彼らの「内輪ノリ」が特に顕著なのはライブMCだろう。私は彼らのライブMCレポを読むのが好きなのだが、面白いくらい内輪ネタのオンパレードである。WHIP THATの即興振付なんかはデビュー後に誕生した流れでわかりやすいものだが、こんなのは序の口で、何年も前のCMやドラマの話もガンガンするし、何ならきょもじゅり以外誰も知らない(何なら本人もうろ覚えだった)高校時代の喧嘩エピソードをいきなり暴露したりもする。いくらなんでも内輪ネタすぎない?

アリーナクラスの会場を埋めるファンのうち、どのくらいデビュー前*2から知っている人がいるのかはわからないけれど、そうでない人が無視できない規模で存在することは私にだってわかる。私自身、SixTONESと出会って1年も経ってないひよっこだし。だけど、彼らは同窓会でもしらけるレベルの内輪ネタをアリーナクラスで共有できるところまで持っていくのである。スベることや収拾つかなくなることもあるだろうが、大事なのはそこではない。「置いてかれてる」「知らない話してる」という気持ちになる人を少なく抑えるという点で、SixTONESは内輪ネタのプロフェッショナルだと思っている。

まず、樹さんのスムーズすぎる補足が強い。話の流れを邪魔することなく、さらっと「◯◯のことね」と付け加える場合もあるし、「それ◯◯な!誰も知らねぇよ!」みたいなツッコミに変化している場合もあるが、何にせよどんなときでも見事な手腕で注釈をつけてくれるのが樹さんだ。北斗くんも彼に近い動きをすることが多いが、メインでフォローに回っているのは樹さんだと思う。話の理解も言葉選びも的確で素早い。そもそもジェシーのボケはジェシーしかいない世界の内輪ネタみたいなところがあるので、それを日々拾い続けてる樹さんがこの作業に長けているのは当たり前なのかもしれない。

京本さんは内輪ネタを創り出すのがめちゃくちゃ上手いと思う。トマトネタが顕著だが、彼は自分の情報を相手にインプットさせるのが上手いし、それを派生させるときのオリジナリティが強すぎるので、めちゃくちゃ面白いうえに予想できない内輪ネタを誕生させることが多い。才能である。北斗くんも創る側が多いが、世界観が練られているのである程度予想がつく。「お約束」的な内輪ネタが得意なのが北斗くんだと思う。末ズのボケは癖があるけど、他のメンバーが拾って一般化を図ったり話を発展させたり単にウケたりすることで上手く収まる(収まらないときもある)。

特異なのが髙地さんで、彼は他人の創った内輪にするっと入り込むのが妙に上手いタイプな気がする。メンバーが始めたノリに上手く乗っかって、ぽんとレールを敷く。このひと手間が挟まることで大事故が減り、他のメンバーも流れに乗りやすくなるのである。YouTubeの車内オリジナルゲームなんかは特に、髙地さんのワンクッションありきで成立している印象がある。方向性をガチガチに固めることはしないのに、なぜかバランスがよくなるのが不思議である。樹さんとは真逆のアプローチで内輪ネタを成立させるのが髙地さんだ。

ここまでつらつら書いてきたが、内輪ネタで盛り上がるのは何もSixTONESに限ったことではない。私は世の中のあらゆる盛り上がりは内輪ネタだと思っている*3。確実に盛り上がれる反面、内輪ネタは外野を冷めさせる原因になりかねない。だけど、彼らは外野に「楽しそうだからあの輪に入りたい」と思わせる求心力がある。あとから来た人を内輪ノリで取りこぼさないような動きをできる人たちでもある。だからこそ、彼らは内輪ネタのプロフェッショナルだと言いたいのだ。

SixTONESは、仲いい奴らで楽しくやってるだけ、というブランディングをしているグループだと思う。事実との距離はさておき、そういう面を意識的に見せようという意図を感じる。そして、そこに惹かれているファンも多いだろう。このイメージを維持するのであれば、「内輪ノリ」を使いこなせるのは大きな武器だと思う。より多くの人に「内輪」としての意識を持たせることができれば、ファンダムは大きくなるし、持つ力も強くなる。team SixTONESという呼び名はまさに、彼らのこうした在り方を示しているように思う。

話をだいぶ戻すが、ファンを囲い込むにあたって「内輪」意識を持たせることが効果を発揮するのであれば、「CDを買わないと曲が聴けない」という今の環境はある意味大正解なのかもしれない。身も蓋もないことを言うが、CDを買う気のない層を取り込むためにサブスクを解禁するより、踏み込んでくる意志のあるファンに「内輪」意識を持たせることの方が大事なのではないかと思うのだ。お金をかけることだけが応援ではないが、大前提としてお金を出すファンがいない限り彼らの活動は大きくならない。数千円のCDを買うか、買わないか。この選択をまず最初に迫ることで、「このグループは自分の領域」という意識を手っ取り早く持たせられるのは強力なアドバンテージになるように思う。愛着を持たせて、特別感を演出して、自分事にしてもらうことで、ファンが増えるのだとしたら。CDを買う人の少ないこの時代に、わざわざCDを買わせるという行為は絶大な効果を発揮するのではないだろうか。サブスクという道を塞ぐことで、打率は間違いなく上がるのではないだろうか。実際どんな意図と影響があるのかは一介のファンには知りようもないけれど、そういう効果もあるのかもしれないなと思う。

ファンダムがもっと大きくなってきたら、内輪意識を持たせつつも幅広い人をすくい上げられるような運営をして行く必要が出てくるだろう。ゲリラで行われるインスタライブなんかはけっこう紙一重なところがあって、内輪意識を強める効果が強いぶん、逃した人の疎外感や反感を生み出しやすいように思う。

彼らがどこまで広い範囲の人を輪の中に取り込めるかは未知数だが、少しずつ着実にteamを大きくしていることは間違いない。これはファンに限らず、むしろスタッフサイドの方々や業界の先輩方の方が取り込まれていってるのではないかと感じている。内輪意識を持って彼らを支えてくれるスタッフが多いことは心強いが、それが周りを冷めさせたり、彼らを動きづらくさせたりするような内輪ノリに転じることがないといいなと思う。この懸念は自分含むファンにも言えることで、彼らのことを勝手に代弁したり、過剰なイジりをしたりすることがないように気をつけたい。私はずっとSixTONESを囲む輪の中にいたいから、その輪が良いかたちで大きくなっていくようにできることをしたいと思っている。それが私にとって、team SixTONESであるということだ。

 

 

 

*1:もちろん大きな進歩であることには変わりない

*2:デビュー前といっても幅が広すぎるのだが、便宜上こう分けた

*3:過激派?

「メンバー」という特別

最近のSixTONESは「グループで仕事をしたい」とよく言う。あらゆるメディアで必ずと言っていいほどその話題が出るし、そしてきっと私たちに届かないところでも、6人で話しているときにも口にしているのだと思う。彼らは6人でいることにこだわるし、6人で何かをすることに価値を見出す人たちなんだなと、事ある毎に実感させられている。

私はアイドルが好きだが、ソロで活動するアイドルにはあまり興味がない。グループで活動するアイドルたちが好きだし、グループの中の1人だけを推す気持ちやアンリーの気持ちがよくわからない。大抵贔屓のメンバーはいるけれど、他のメンバーのことも好きだ。というか、どんなに素敵な人でも他のメンバーが好きになれなければ応援しようとは思えないので、私の場合そういう推し方にはならないのかもしれない。

最近、私のこの傾向はアイドルに限らないらしいということに思い当たった。例えば、私の好きなバンド・ヨルシカは特にその傾向が強い。メンバー2人の関係性が好きで、それが楽曲に重ねられているところが好きだからこそここまで追いかけているのだと思う。実際、n-bunaさんのボカロ時代の楽曲はヨルシカほど熱心に聴いていない。suisさんとやり始める前のn-bunaさんを知る手段、という見方がどこかにあるような気がする。プリキュアもそうで、トロピカル〜ジュ!プリキュアのまなつちゃんが好きなのはローラとの関係性が好きだからで、今のひろがるスカイ!プリキュアましろちゃんと接するソラちゃんが好きだからここまでハマっているのだと思う。

私は幼稚園のときから所謂いい子ちゃんで、友達がいない子と班を組んだりペアを組んだり、ケンカした子たちの間を取り持ったりすることが多かった。学級委員をやることが多かったのも相まって、クラスの中での人間関係は常に流動的だったように思う。転校してきた子と一緒に行動して、その子とクラスの子が仲良くなり始めたらそのときハブられてる子と仲良くして。そんな風に振る舞える自分が好きだったし、誇りを持ってもいた。でも、それは自分と対等で、ずっと一緒にいられるような友達がいないことの裏返しでもあった。仲の良い子はたくさんいたが、例えば体育でペアを組むとき、例えば修学旅行の班を作るとき、いつも空いてるところを探して彷徨っていたのも事実である。「私がこうしないと上手くまとまらないから」と思うことでアイデンティティを保っていただけで、そういうときに迷いなく決まった相手と組める子たちが羨ましかった。当時は自覚していなかったけれど、このコンプレックスはずっと私の中で燻っているような気がする。

私のことを深く深く愛して、たとえば死後に神様から「特別な誰かを一人選びなさい」って言われたら、真っ先に自分を選んでくれるような人が欲しい。(中略)世界中で、私のことだけを選んでくれる人。そして私も、同じ質問をされたらその人だけを選ぶの。

「やがて海へと届く」より抜粋

これは私が好きな小説の一節で、私が探し求めている関係性はこれだと思っている。唯一無二の存在感を持った人間が、私の物語に登場することをずっと望んでいる。そしてその願望が恋愛への極端な期待へと繋がり、紆余曲折を経て今の趣味嗜好に繋がっているのだと思う。

私が恋愛対象としてきた人は、思えば親友のような存在を持たない、あるいはそう見えていた人だけだ。私にとっての恋愛というのは、私と合わせてひとつになってくれる人を探すもので、既に誰かとひとつになっている人は対象から外れていたのだと思う。

趣味嗜好の話に戻すが、端的に言って私はコンビ厨だと思う。トリオにはそこまで惹かれない。その2人だけが共有してきた時間がある人たちが好きだ。もっと言うと、誰かとそういう濃い時間や感情を共有している/したことがある人ばかり推している。分かりやすく欲深いので恥ずかしいが、事実なのでどうしようもない。私が推しを語ろうとするとき、そこには必ずメンバーをはじめとした他者が登場するし、そういう見方をする私はグループで活動するアイドルばかり好きになるのである。それは、彼らが私が得られなかったものを持っている人だからなのだろう。恋愛の場合とは違って、私の入り込む隙のないくらい他者に介入されている人、そう見える人を好きになるのだ。

だいぶ寄り道してしまったが、私はコンビの集合体としてのSixTONESが好きなのかもしれない、ということが書きたくてこの文章を書いている。そして、SixTONESとしてのメンバーもそれぞれ、コンビの集合体なのではないかと思うのだ。私の中での「SixTONES京本大我」は、きょもしんの京本大我と、きょもほくの京本大我と、きょもゆごの京本大我と、京ジェの京本大我と、きょもじゅりの京本大我でできているということだ。私はメンバーを通した京本大我しか知り得ない、とも言い換えられると思う。

京本さんの歌や、声や、パフォーマンス、言葉選びやファンとの距離の取り方、その他数え切れないほどの要素で構築されている、彼自身が造りあげているアイドル・京本大我のことが好きだ。たまらなく好きだ。だけど、もし彼がSixTONESという集団に属していなかったとしたら、私は彼に辿り着いていないと思うし、彼の魅力を100000分の1も知ることはなかっただろうと思う。こんな仮定は成立しないことは重々承知だけれども、もしも彼がグループを組まず、ソロで活動していたとしたら。私が好きになったままのアイドル京本大我がそこにいたとしても、こんなにのめり込むことはなかっただろうと思う。

グループで活動することの利点はそういうところにあるのではないだろうか。私が干渉できないところにいる彼らが、他者の干渉を受ける様を見せてくれることで、私の知りたいという欲はある程度満たされる。他のメンバーのことを語る担当や、担当のことを語る他のメンバーを観測することで、私は彼のことを知っていく。干渉してくれるメンバーがいるかどうかは、我々の知る情報の多寡に大きく影響すると思う。

また、近距離に同業者がいるということは、特有の刺激を受ける機会があり、そしてそれによる変化が見られるということだと言えると思う。変わらないで欲しいと思う部分もあるけれど、やはり他人の成長や変化を目の当たりにするのは面白いものだ。その原因が自分に見えている範囲にある(と思える)場合はなおのこと面白い。影響し合う彼らの様子は興味深く、妬ましく、とても美しいものとして私の目に映る。

私はアイドルになったことがないし、先述した通り他者と密な関係を築いた経験が多くないのであくまで憶測だけど、アイドルにとってのメンバーというのは唯一無二の存在なのではないかと思う。仕事仲間であり、場合によっては友達にも近い存在で、だけどただの友達では言葉が足りない。家族のようでもあり、本当の家族では築けない関係でもある。仲がいいかどうかとはまた別の話だが、特別であることは間違いないのではないかと感じる。私がこの先何年生きたとしても得ることの出来ない特別な関係。そういう「特別」を共有する人たちが、お互いの欠けたところや弱いところを補い合い支え合って夢を目指す様子は、私のコンプレックスを刺激する。それと同時に、私がかつて諦めた願望を託したいという気持ちがふつふつと湧いてくる。自分では実現できなかった充実した日々を、他人の人生を通して知ろうとするのが私の「推し活」なのである。

「メンバー」の特別感は、冒頭で述べた私の「他のメンバーも好きにならないと推せない」とも繋がる。メンバーを通して自担を見たい私としては、メンバーのことも好ましく、信頼できると思えないと満足できない。だから、他のメンバーも好きにならないと腹は括れないのである。

そういう傾向を鑑みると、私がSixTONESを好きになるのは避けがたいことだったのだと思う。6人であることに「特別」を見出す人たちで、各ペアがそれぞれ共有してきた感情や、互いに抱いてきた憧れがある人たち。その関係の中に生まれたのはポジティブな感情だけではなかったかもしれないけれど、それでも皆、6人でいることを選び続けてきた。それは何よりも強い愛で、「特別」だと思う。眩しくて羨ましくて、愛おしい関係性だ。彼らの「特別」が、無遠慮に触られることのないように。彼らだけの「特別」のまま、変化してもずっと残り続ける関係でありますように。そういうことを、身勝手に祈っている。