「メンバー」という特別

最近のSixTONESは「グループで仕事をしたい」とよく言う。あらゆるメディアで必ずと言っていいほどその話題が出るし、そしてきっと私たちに届かないところでも、6人で話しているときにも口にしているのだと思う。彼らは6人でいることにこだわるし、6人で何かをすることに価値を見出す人たちなんだなと、事ある毎に実感させられている。

私はアイドルが好きだが、ソロで活動するアイドルにはあまり興味がない。グループで活動するアイドルたちが好きだし、グループの中の1人だけを推す気持ちやアンリーの気持ちがよくわからない。大抵贔屓のメンバーはいるけれど、他のメンバーのことも好きだ。というか、どんなに素敵な人でも他のメンバーが好きになれなければ応援しようとは思えないので、私の場合そういう推し方にはならないのかもしれない。

最近、私のこの傾向はアイドルに限らないらしいということに思い当たった。例えば、私の好きなバンド・ヨルシカは特にその傾向が強い。メンバー2人の関係性が好きで、それが楽曲に重ねられているところが好きだからこそここまで追いかけているのだと思う。実際、n-bunaさんのボカロ時代の楽曲はヨルシカほど熱心に聴いていない。suisさんとやり始める前のn-bunaさんを知る手段、という見方がどこかにあるような気がする。プリキュアもそうで、トロピカル〜ジュ!プリキュアのまなつちゃんが好きなのはローラとの関係性が好きだからで、今のひろがるスカイ!プリキュアましろちゃんと接するソラちゃんが好きだからここまでハマっているのだと思う。

私は幼稚園のときから所謂いい子ちゃんで、友達がいない子と班を組んだりペアを組んだり、ケンカした子たちの間を取り持ったりすることが多かった。学級委員をやることが多かったのも相まって、クラスの中での人間関係は常に流動的だったように思う。転校してきた子と一緒に行動して、その子とクラスの子が仲良くなり始めたらそのときハブられてる子と仲良くして。そんな風に振る舞える自分が好きだったし、誇りを持ってもいた。でも、それは自分と対等で、ずっと一緒にいられるような友達がいないことの裏返しでもあった。仲の良い子はたくさんいたが、例えば体育でペアを組むとき、例えば修学旅行の班を作るとき、いつも空いてるところを探して彷徨っていたのも事実である。「私がこうしないと上手くまとまらないから」と思うことでアイデンティティを保っていただけで、そういうときに迷いなく決まった相手と組める子たちが羨ましかった。当時は自覚していなかったけれど、このコンプレックスはずっと私の中で燻っているような気がする。

私のことを深く深く愛して、たとえば死後に神様から「特別な誰かを一人選びなさい」って言われたら、真っ先に自分を選んでくれるような人が欲しい。(中略)世界中で、私のことだけを選んでくれる人。そして私も、同じ質問をされたらその人だけを選ぶの。

「やがて海へと届く」より抜粋

これは私が好きな小説の一節で、私が探し求めている関係性はこれだと思っている。唯一無二の存在感を持った人間が、私の物語に登場することをずっと望んでいる。そしてその願望が恋愛への極端な期待へと繋がり、紆余曲折を経て今の趣味嗜好に繋がっているのだと思う。

私が恋愛対象としてきた人は、思えば親友のような存在を持たない、あるいはそう見えていた人だけだ。私にとっての恋愛というのは、私と合わせてひとつになってくれる人を探すもので、既に誰かとひとつになっている人は対象から外れていたのだと思う。

趣味嗜好の話に戻すが、端的に言って私はコンビ厨だと思う。トリオにはそこまで惹かれない。その2人だけが共有してきた時間がある人たちが好きだ。もっと言うと、誰かとそういう濃い時間や感情を共有している/したことがある人ばかり推している。分かりやすく欲深いので恥ずかしいが、事実なのでどうしようもない。私が推しを語ろうとするとき、そこには必ずメンバーをはじめとした他者が登場するし、そういう見方をする私はグループで活動するアイドルばかり好きになるのである。それは、彼らが私が得られなかったものを持っている人だからなのだろう。恋愛の場合とは違って、私の入り込む隙のないくらい他者に介入されている人、そう見える人を好きになるのだ。

だいぶ寄り道してしまったが、私はコンビの集合体としてのSixTONESが好きなのかもしれない、ということが書きたくてこの文章を書いている。そして、SixTONESとしてのメンバーもそれぞれ、コンビの集合体なのではないかと思うのだ。私の中での「SixTONES京本大我」は、きょもしんの京本大我と、きょもほくの京本大我と、きょもゆごの京本大我と、京ジェの京本大我と、きょもじゅりの京本大我でできているということだ。私はメンバーを通した京本大我しか知り得ない、とも言い換えられると思う。

京本さんの歌や、声や、パフォーマンス、言葉選びやファンとの距離の取り方、その他数え切れないほどの要素で構築されている、彼自身が造りあげているアイドル・京本大我のことが好きだ。たまらなく好きだ。だけど、もし彼がSixTONESという集団に属していなかったとしたら、私は彼に辿り着いていないと思うし、彼の魅力を100000分の1も知ることはなかっただろうと思う。こんな仮定は成立しないことは重々承知だけれども、もしも彼がグループを組まず、ソロで活動していたとしたら。私が好きになったままのアイドル京本大我がそこにいたとしても、こんなにのめり込むことはなかっただろうと思う。

グループで活動することの利点はそういうところにあるのではないだろうか。私が干渉できないところにいる彼らが、他者の干渉を受ける様を見せてくれることで、私の知りたいという欲はある程度満たされる。他のメンバーのことを語る担当や、担当のことを語る他のメンバーを観測することで、私は彼のことを知っていく。干渉してくれるメンバーがいるかどうかは、我々の知る情報の多寡に大きく影響すると思う。

また、近距離に同業者がいるということは、特有の刺激を受ける機会があり、そしてそれによる変化が見られるということだと言えると思う。変わらないで欲しいと思う部分もあるけれど、やはり他人の成長や変化を目の当たりにするのは面白いものだ。その原因が自分に見えている範囲にある(と思える)場合はなおのこと面白い。影響し合う彼らの様子は興味深く、妬ましく、とても美しいものとして私の目に映る。

私はアイドルになったことがないし、先述した通り他者と密な関係を築いた経験が多くないのであくまで憶測だけど、アイドルにとってのメンバーというのは唯一無二の存在なのではないかと思う。仕事仲間であり、場合によっては友達にも近い存在で、だけどただの友達では言葉が足りない。家族のようでもあり、本当の家族では築けない関係でもある。仲がいいかどうかとはまた別の話だが、特別であることは間違いないのではないかと感じる。私がこの先何年生きたとしても得ることの出来ない特別な関係。そういう「特別」を共有する人たちが、お互いの欠けたところや弱いところを補い合い支え合って夢を目指す様子は、私のコンプレックスを刺激する。それと同時に、私がかつて諦めた願望を託したいという気持ちがふつふつと湧いてくる。自分では実現できなかった充実した日々を、他人の人生を通して知ろうとするのが私の「推し活」なのである。

「メンバー」の特別感は、冒頭で述べた私の「他のメンバーも好きにならないと推せない」とも繋がる。メンバーを通して自担を見たい私としては、メンバーのことも好ましく、信頼できると思えないと満足できない。だから、他のメンバーも好きにならないと腹は括れないのである。

そういう傾向を鑑みると、私がSixTONESを好きになるのは避けがたいことだったのだと思う。6人であることに「特別」を見出す人たちで、各ペアがそれぞれ共有してきた感情や、互いに抱いてきた憧れがある人たち。その関係の中に生まれたのはポジティブな感情だけではなかったかもしれないけれど、それでも皆、6人でいることを選び続けてきた。それは何よりも強い愛で、「特別」だと思う。眩しくて羨ましくて、愛おしい関係性だ。彼らの「特別」が、無遠慮に触られることのないように。彼らだけの「特別」のまま、変化してもずっと残り続ける関係でありますように。そういうことを、身勝手に祈っている。