晴れの日

祖父が死んだ。

この二年くらいは病気や怪我でずっとどこかしらが悪くて、この半年は入院していたし、先生にももう長くないかもしれないと言われていたのに、知っていたのに、祖父が本当に死ぬことを全く想定できていなかった。わたしが近しい人を亡くした経験がないこともあると思うけれど、祖父は死と縁遠いパワフルでめちゃくちゃな人だったので、弱った姿を見てもまたあの元気な祖父に戻るに違いないとどこかで信じていたのだと思う。

祖父母の家はわたしの住んでいるところから近いわけではないので、頻繁に会う関係ではなかった。でも、産まれたばかりのわたしが時間を過ごしたのはあの家で、毎年必ず夏休みとお正月に帰る場所で、帰ればいつでも満ち足りた気持ちになれる場所で。その居心地のいい家は祖父が設計したもので、それもまた誇らしくて嬉しい要素なのだった。

ほんの数年前まで、祖父は仕事を続けていた。自宅から車で少し行ったところに事務所があって、夏休みにはよく連れていってもらった。お客さんと打ち合わせをしているところを見たり、パソコンでソリティアをさせてもらったり、近くのスーパーでアイスやお菓子を買ってもらって食べたりしたあの場所は、わたしが知らないうちになんとかクリニックに変わっていた。もうあの場所はないし、あそこに祖父はいない。当たり前のことがよくわからない。

祖父は車が好きだった。運転はちょっと荒かったけど、いろんなところに連れていってもらった。助手席に乗せてもらってお喋りするのが好きで、幼い頃はいつか私が運転する車に祖父を乗せられたら喜んでくれるだろうと思っていた。運転には適性がなさそうだから免許はとらないでおこうと決めたときも、祖父が運転できなくなることなんか考えていなくて、なのに気がついたときには祖父は運転できない体になっていて、あの車はガレージからなくなっていた。最後にあの特等席に座ったのはいつだっただろう。車にいつも置いてあった大きな丸い飴はどこで買っていたのだろう。

祖父とふたり、あるいは妹も一緒に三人で出かけるときは、何でも買ってもらえて、何でもやらせてもらえた。マクドナルドのLサイズのポテトも、ねるねるねるねも、初めて買ってくれたのは祖父だった。かき氷器とシロップを買ってくれて、かけすぎたら叱られると思ってそーっとシロップをかけるわたしに「もっとドバドバかけた方がええ」と悪い顔で教えてくれたのも祖父だった。祖父は冷たいものが大好きで、出先でソフトクリームの置き物を見ると絶対に自分の分とわたしたちの分を買ってくれたし、毎晩アイスを食べていたし、絶対お腹を壊したりしなかった。釣りが趣味なのに、刺身も寿司もそんなに好きではないという頑固な人だったけど、わたしが初めて美味しいと思ったお刺身は祖父が釣ってきた太刀魚で、そう言ったらすごく嬉しそうに笑ってくれた。ネットショッピングやテレビショッピングで絶対にいらないものをしょっちゅう買っては祖母に叱られていたけれど、わたしたちがいるときの方が叱られにくいから今のうちに買っておくんやと笑っていた。

わたしの結婚式では一曲歌うと豪語していたし、わたしとお酒を呑むのを楽しみにしていたのに、いざわたしが二十歳になったときはもうお酒は呑まなくなっていた。悲しくて悔しくて、お通夜でもお葬式でもたらふくビールを呑んで見せてあげたけど、祖父も呑んでいただろうか。

わたしが初孫だからか、祖父によく似ているからかわからないけど、とにかく祖父はわたしを可愛がってくれた。世界で一番、美人で賢いと褒めてくれる人だから、祖父の前ではいつも張り切ってしまう。病院にいなくちゃいけなかった体から抜け出した今ならいつでもわたしを見に来れるはずだから、ずっと張り切っていなくちゃいけない。困ったね。

祖父は握力の強い人で、事あるごとに握手をしてくれた。最後に会ったときでさえ、力が強すぎて手が痛いくらいの握手だった。祖父に負けないくらい強い力で、できるだけいい未来を、いい縁を、掴み取りたい。わたしが死ぬころには祖父は絶対なにか新しいことをしていると思うので、その前に報告できることをいっぱい作りたいと思う。そういう決意表明と、今の気持ちをより分けること、そしてそれを形にして置いておくために、この文章を書いている。

喪失感はどうやってもなくならないけれど、この喪失感と一緒に生きていけることは幸せなことだと思う。最強の晴れ男だった祖父が死んでからは雨続きだった。お葬式の日も朝は雷がなっていた。だけど、お収骨が終わって外に出たときは雲が開けて青空が見えていた。祖父があそこにいるんだと思った。雨の日は、あの日の悲しみを思い出すかもしれないけれど、お日様が見える日はいつでも、祖父の頼もしさを思い出すだろう。

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愛の花

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