アルバス・ダンブルドアと麒麟のお辞儀

私がハリーポッターと出会ったのは小学生の頃。鮮やかに、緻密に、でもダイナミックに描かれる魔法の世界にあっという間に引き込まれて、取り憑かれたように死の秘宝まで読み進めたあの衝動は、それから10年以上経つ今も忘れられない。ハリーポッターシリーズは私の読書人生で圧倒的なナンバーワンであり、オンリーワンである。

とにかくストーリーが面白くて、何度も何度も読み返すうちに、だんだんと特定のキャラクターに惹かれるようになる。それが、アルバス・ダンブルドア。私の、人生初の推しである。

ダンブルドア先生は、文句なしに魔法が上手くて強い。だけどそれをひけらかしたりしないし、魔法省に媚びることもしない。それでいて、自分の能力の高さには自覚的で、必要以上の謙遜は一切しない。影の薄い生徒の名前もちゃんと覚えて気にかけているし、誰に対しても礼儀正しい。賢くて何もかもを見通しているようでありながら、ユーモラスで親しみやすい。レモン・キャンディーのように酸っぱいのに甘ったるくて、身近だけれど少し扱いづらいダンブルドア。一度意識し始めると止まらなかった。ダンブルドア先生、カッコいい。こんな先生が私の学校にもいたらいいのにな。そう思い始めるまで一瞬だった。

中学校に上がって、ハリーポッターが好きな友達が何人かできた。この話が面白いよね、この巻が好き、このセリフに感動した。そういう話の流れで、「ダンブルドア先生が好き」と話した。わかる!カッコいいよね!というリアクションを想定していた私は、友人たちの微妙な反応に驚いた。正直に言うと、ショックだった。こんなにカッコいいのにどうしてだろう?腑に落ちないながらも、それ以上なんと言っていいかわからず、口を閉ざした。

高校生になって、ネットでハリーポッターが好きな人の呟きや文章を探して読むようになった。ダンブルドア先生が好きな人もたくさん見つけて、やっぱりそうだよね、とテンションがあがると同時に、そうではないコメントも少なからず見かけた。ダンブルドアがこうしていればこんな不幸は起きなかったはずだ、ダンブルドアはハリーを贔屓しすぎ、といった非難は嫌でも目に入ったし、全部お門違いだと思った。反論している人もたくさんいて安心したが、それと同時に、同じものを読んでも抱く印象はこんなにも違うんだと衝撃を受けたのを覚えている。

アルバス・ダンブルドアという人は、ハリーポッターという物語のキーパーソンであり、神のようなキャラクターなのだと思う。ダンブルドアは全てを知っているし、何でもできる。ダンブルドアなら解決してくれる。そう思わせる実力と実績が間違いなくあったからこそ、過剰な期待と批判が集まるのだ。それは、物語の世界の中でも、この世界でも同じである。

ハリーはダンブルドアをよく知っているつもりだった。(中略)ダンブルドアの子どものころや青年時代など、ハリーは一度も想像したことがなかった。最初からハリーの知っている姿で出現した人のような気がしていた。人格者で、銀色の髪をした高齢のダンブルドアだ。

ハリーポッターと死の秘宝」追悼

ハリーポッターシリーズの終盤に差し掛かると、神だったアルバス・ダンブルドアは徐々に人間としての一面を見せ始める。ダンブルドア先生にも怖いものがあり、できないことがあることがだんだんわかってくる。そして、ダンブルドアは死ぬ。彼の死の描写によって、アルバス・ダンブルドアが紛れもなく私たちと同じ人間であることを私たちは知らしめられたはずなのに、どうしてそんな無責任なことが言えるのだろう。疑問だったし、悲しかった。ダンブルドア先生は誰よりも強くて、カッコよくて、孤独だったのに。ネットを彷徨ううちに、ダンブルドアとゲラート・グリンデルバルドとの関係がJKRに明言されていることを知った私は、より一層その気持ちを強めることになる。大好きな人が愛に不器用で、他人に理解されにくい人であることが悲しくて、そしてたまらなく愛おしかった。

私のアルバス・ダンブルドアに対する気持ちは恋ではないと思う。恋に限りなく近いかもしれない、憧れと尊敬の対象である。少なくない学生が経験するであろう、学校や塾の先生に抱く仄かな恋心のようなものに似ていると、私自身は思っている。

私が中学生の頃、ファンタスティックビーストシリーズがスタートした。当時はゆるふわ動物たちが主人公のほんわか日常系スピンオフだと勝手に思っていたため、なんの気負いもなく映画館へ行ったのだが、それは大間違いだった。作中の魔法や、映像技術はパワーアップしているものの、そこには紛れもなく、小学生の私が夢中になったウィザーディングワールドがあった。若かりし頃のダンブルドア先生は思っていたより大分出番が多く、原作ままのキラキラいたずらっぽく輝く青い瞳や、生徒に慕われている様子が見れることが嬉しかった。ファンタスティックビーストの続編を待ち続ける月日が始まった。2作目、終盤の爆弾を受け止めて、もしかして次作、ダンブルドアがメインになるのでは……という淡い期待を抱かされるも、様々な不測の事態でによって延期が重なり、歯がゆい思いもした。そして、去年。やっと3作目のタイトルが発表された。「Fantastic Beast and The Secret of Dumbledore」邦題は「ファンタスティックビーストとダンブルドアの秘密」。

正直なところ、ものすごく期待した。ついに、パーフェクト・プロフェッサー・ダンブルドアではない、アルバス・ダンブルドアという一人の人間にスポットライトが当たるかもしれないと思うと待ちきれず、短い予告映像を何度も見て、今か今かと公開を待った。紆余曲折を経て公開されて、劇場に足を運んだ。自分が何かをするわけではないのに、緊張したし、手が震えた。照明が落ちて、予告が終わって、待ちわびたダンブルドアの物語が幕を開ける。

約2時間半。すごく面白かったし、盛り上がるところや、感動したところがたくさんあった。痺れたシーンもあった。そのはずなのに、見終わった瞬間、私はたまらなく寂しい気持ちだった。ダンブルドア。私の大好きな、アルバス・ダンブルドア。彼は、既に限りなく孤独だった。何もかもを見透かしているのに、決してそれを他人と共有しない。黙って信頼してくれと、悪いようにはしないから私に任せてくれと、そう言う。スキャマンダー兄弟には少しシェアしていたけれども、結局、彼は祝いの輪には混ざらない。彼がひとりで街を歩いてレストランに向かうところから始まり、ささやかだけれども賑やかで幸せに満ちた宴に背を向けて、ひとり闇夜の街へと消えていくところで終わるこの映画は、何と残酷なのだろう。そう思った。それに不満がある訳ではない。それこそがダンブルドアという人の生き方で、それを丁寧に描いているだけだから。ただただ、それを寂しいと思った。

私がFB3の中でいちばん鮮烈に記憶しているのは、麒麟ダンブルドアにお辞儀をするシーンである。どことなく覚束無い足取りで、でも確かな意志を持って、アルバス・ダンブルドアの足元に歩み寄り、跪く麒麟の姿が、その美しさが、脳裏に鮮やかに焼き付いている。私はその光景を見て、痺れるような感覚に襲われながら、これが見たかったのだ、と思った。アルバス・ダンブルドアという人間が選んできた道が肯定される瞬間。自分の好きな人の素晴らしさが上手く伝わってないことがずっと不満だった私にとって、あの麒麟のお辞儀は祝福そのものだった。彼が選び続けた孤独や正義が、その蓄積で出来上がったダンブルドアが、麒麟の目に清らかなものとして映ったことが嬉しかった。これを見るために生きてきたんだ、とまで思った。アルバス・ダンブルドアの人生は決して真っ白ではなかったかもしれないけれど、それは紛れもなく清廉で、誠実なものだった。それがきちんと描写されたことを、私は嬉しく思う。この描写を経て、私はやっと、アルバス・ダンブルドアという人の一生を、彼の死に様を、受け入れられたような気がしている。

「ファンタスティックビーストとダンブルドアの秘密」を観てから、もう何ヶ月も経つ。FB3は私の中で徐々に消化されている。寂しさは未だに残っているけれど、結局私にとってダンブルドアという存在はこの寂しさと切り離せないものなのだろうという結論に至った。今は、寂しさと、あの美しい麒麟のお辞儀を胸に抱いて生きていこうと思っている。

そして私は、ダンブルドアに愛を叫びたいと思った。ダンブルドアの生き様がどんなに素晴らしいかを私なりに示したいと思った。彼を愛していると、言葉にすることを選びたいと思った。

 

この文章は、私にとって、アルバス・ダンブルドアへの追悼文であり、ラブレターであり、深い深いお辞儀である。

 

最後に、私の人生の指針のひとつであるダンブルドアの言葉を引用させてほしい。

もちろん、きみの頭の中で起こっていることじゃよ、ハリー。しかし、だからと言って、それが現実ではないと言えるじゃろうか?

ハリーポッターと死の秘宝」キングズ・クロス

遍くエンターテインメントは嘘によって成り立っている。しかし、虚像であっても、架空であっても、それは私たちにとって紛れもない現実である。フィクションもファンタジーも、たしかに私たちの世界と繋がっている。人を愛し、文化を敬い、夢を見て生きることを、否定したり、軽んじたりするような世の中になってほしくないと思う。

9と3/4番線には入れなくとも、私には本があり、映画がある。いつでもそこにダンブルドア先生がいる。それにずっと救われているから、ファンタジーやエンターテインメントが持つ力を信じずにはいられない。きっと一生そうだと思う。現に、私が今好きだと思う他の人たちも、エンターテインメントの力を信じ、活かそうとする人ばかりだ。

私は、愛する彼らを、エンタメを、杖灯りのように掲げて生きていくことを選択したい。それが私なりの正義であり、ダンブルドア先生から学んだことに対するアンサーである。

 

 

 

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