原作厨の一人言

レガシー発売に伴って映画を見返してる人々をお見かけしたことで、映画もいいけど原作も読んでくれ!!妖怪の人格が活発になってしまったのでハリーポッター原作読めブログを書いています。

ハリーポッターいちばん面白いところのネタバレがほぼ全部含まれますので、未読の方はこんなものは読まずに原作に目を通すことをおすすめします。Kindle Unlimited(月額980円)で全巻読めますので……

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当たり前ですが、このブログは100%個人的な好みと解釈によって構成されていますので、気が合わなそうだなと思ったら迷わず閉じてください。よろしくお願いします。

はじめに

ハリーポッターという作品は全巻通して「愛」「死」それから「選択」の三つが軸となって展開されています。

「愛」と「死」は相対する概念として扱われます。「愛を知らずに生きることは死ぬことよりも恐ろしい」ことで、ハリーの宿敵・ヴォルデモート卿は「愛を知らずに生きる」キャラクターとして描かれています。ヴォルデモート卿がハリーに打ち負かされる過程で、彼にとっての不測の事態は数多くあり、その多くは「愛」に対する無理解によるものでした。例えば自分が操っているつもりだったスネイプの、リリーへの愛。例えばハリーが死んでいることを確認させたナルシッサの、息子ドラコへの愛。ヴォルデモート卿が理解し得なかった「愛」によって彼は敗北して「死」に追いやられるのです。愛のみが死に勝るというのがハリーポッターシリーズの一貫したドグマであるといえます。

それから、「選択」。どんな親から生まれたか、‪どんな家庭で育ったか、よりも、どんな生き方を選んだか、がその人の人となりを表すというのが一貫した価値基準になっています。一度間違えても、その後の選択でその名誉を取り戻せる。こうした道徳観は、セブルス・スネイプの描写に特によく現れていると思います。原作軸では「正しさ」そのもののような立ち位置に据えられているアルバス・ダンブルドアに関してもそうです。私のこの解釈を前提としてこの文章は進めていきたいと思います。

組み分け

ハリーポッターをよく知らない人でも「スリザリンは嫌だ」というセリフは知っているんじゃないでしょうか。組み分けはハリーポッターシリーズの中でも特に面白い概念だと思います。ホグワーツ魔法魔術学校に入学した生徒は、魔法の帽子・組み分け帽子によってその素質を判断された上で4つの寮に組みわけられ、その寮で7年間生活します。

グリフィンドールが善/スリザリンが悪の二元論で語られがちですが、寮に貴賎はないということも書いておきます。主人公であるハリーはグリフィンドールで、なおかつ彼の近くには筋金入りのグリフィンドール血筋であるウィーズリー家がいるので、本編で語られる各寮の印象はどうしても偏ってしまいます。ただ、それは子供が抱いている偏見がそのまま反映されているだけだということは強調しておきたい。舞台呪いの子では印象がガラリと変わるような描写がされていますし、どの寮も一長一短です。

まず改めて述べておきたいのは、ハリーポッターは選択を重んじる物語であるということ。つまり、組み分けにおいても、本人の素質だけではなくその人の選択がちゃんと加味されるということです。実際、先程述べた「スリザリンは嫌だ」というハリーの意志によって、ハリーはグリフィンドールに組み分けられます。どんな自分になりたいか、はっきりと意志がある場合は必ずそれが尊重されるのです。ただ、入学段階の子供でそこまで意志がある子も少ないでしょうし、大抵は伸びそうな才能を見分けて組み分けられるものだと私は解釈しています。

さて、肝心の寮の特性について私の解釈を述べたいのですが、長くなりそうなので先にわかりやすいオススメのブログのリンクを貼っておきますね。

ホグワーツ組み分け大解剖(2) 寮同士の対立をみる - Majologsayonaky.hateblo.jp

 

グリフィンドールは勇気をば 何よりもよき徳とせり*1

グリフィンドールが「勇気」を掲げるのは、グリフィンドールが広い範囲の世界や人を救うことを是とする寮だからです。自分や友達、家族だけではなく、場合によっては敵も含んだ全ての人を救うために自分を捧げて闘うことが何より素晴らしいという価値観。それをめちゃくちゃ簡単にまとめると「勇気」になるわけです。そういう意味で、ヴォルデモートを止めるために自分が殺されることを選んだハリーは文句無しにグリフィンドールですよね。騎士道、ヒロイズムといえば聞こえはいいですが、自分本位な傲慢さとも紙一重なところがあり、お調子者が多い寮でもあると思います。

力に飢えしスリザリン 野望を何より好みけり

その真逆に位置するのがスリザリン。スリザリンにとっていちばん大切なのは、自分の世界を守ること。その範囲は家族であったり、組織であったり、自分だけだったりするわけですが、とにかくそれが守れれば後のことはどうでもいいのがスリザリンです。その「野望」のためなら規律や他人は蔑ろにできる強さがあります。これが強くなりすぎると、自分たちさえいい思いが出来れば良い、という身勝手さに繋がります。そしてその身勝手さが加速すると、倫理観さえも無視できてしまうので、結果的に闇の魔法使いが誕生する。だからスリザリン出身の闇の魔法使いが多い、というロジックだと私は解釈しています。友達間のノリで軽犯罪やりがち、だけど家族とか友達はめっちゃ大事にするヤンキーみたいな。サラザール・スリザリンに激怒されそうな例えですが。血筋を重んじる傾向が排他的な性質を増幅させたのかなと負います。私見ですが、スリザリン推しの人が多いのもこういう特性によるものだと思います。大切な身内を守るためなら何でもする、ってオタク受け抜群の特性なので……

レイブンクローは賢きを 誰よりも高く評価せり

レイブンクローはスリザリンと近い内向性を持つ寮です。ただ、興味の対象が俗世から離れていることが多いのでスリザリンと比べて闇堕ちが少ない(あるいは実害があまりない)のかなと思います。勉強熱心というよりかは好きなものに対するエネルギーがデカすぎてひとつのことに延々取り組むのが苦じゃない、という感じ。そのために、頭ひとつ抜けて「賢い」人が多いのではないかと思います。一点集中型ゆえに世間知らずだったり、ちょっと思いやりに欠ける言動があったりする場合もあります。あと、レイブンクローのキャラクターが物語の中にあまり登場しないのも、彼らが自分の世界に没頭しているからなのかもしれないですね。

ハッフルパフは勤勉を 資格あるものとして選びとる

最後にハッフルパフ。グリフィンドールに近い外向性があります。レイブンクローが天才だとするなら、ハッフルパフは努力に基づいた秀才だと言えるでしょう。社交的で「勤勉」、実用的なものを好む優等生の寮です。堅実で、どちらかというと規律に大人しく従うタイプ。しかし、こうした特性は没個性的でもあるため、ハッフルパフは劣等生が多いと言われてしまうことが少なくありません。実際は劣等生より優等生が多いのではないかと思います。絶対グリフィンドールの方が問題児が多いでしょ。

セブルス・スネイプについて

前述したスリザリンの特性の権化のようなキャラクターがスネイプです。スネイプは学生時代の友人たちと共に闇の魔術に傾倒していて、そのままヴォルデモート卿の手下・死喰い人になりました。彼の「身内」はほとんど同じ寮の人たちだったわけです。そんな彼にはずっと思いを寄せ続けた相手がいました。それがリリー・エバンズ(のちのリリー・ポッター)です。グリフィンドールでマグル生まれ、闇の魔術には断固反対というスネイプとは真逆の人でしたが、彼は彼女に惹かれ続けていました。そのため、リリーのことも自分の大切な人として位置付けていたわけです。しかし、スネイプがヴォルデモート卿に伝えた予言によって、リリーは家族もろとも殺されそうになります。リリーを見逃すようヴォルデモートに頼んだもののほぼ取り合って貰えず、リリーが殺されるかもしれないことに耐えられなかったスネイプは恥を捨ててダンブルドアの元へ行き、「あの人を助けてください」と懇願します。何でもする、ヴォルデモート卿のことも裏切る。大嫌いなジェームズ・ポッターを庇うことになったとしても構わない。とにかくリリーに生きていてほしい。非常にスリザリンらしい利己的な感情ですよね。結局計画は上手くいかず、リリーは殺されてしまいましたが、彼は死ぬまで彼女の遺した子供を守ることに尽力しました。

このエピソード自体は有名ですし、こうした面を知ったことでスネイプのことを好きになった方も多いと思います。ただ、「スネイプは実はいい人だった」という言い方は非常に雑で、不適切なのではないかと私は常々感じているのです。因縁深すぎるハリーのことは一旦置いておくとして、マグル生まれであるハーマイオニーを不当に虐めていたことは繰り返し描写されていますし、血統に関する差別的な発言も少なくありません。リリーに決別されたときから、彼の価値観は何も変わっていないのです。マグルにいい人だったと持て囃されていることに一番苛立っているのはスネイプ本人だと思います。知らんけど……

確かに映画のスネイプは素敵なんですが、それはアラン・リックマンが素敵で原作のゲスすぎる言動がことごとくカットされているからだと思うんですよね。スネイプはどんなに人を愛しても変われなかったけれど、それでも死ぬまで愛を貫いたところがカッコいいんですよ。差別も虐めも生涯やめられなかったのに、自分の嫌う属性を組み合わせてできたような女性を愛することもやめられなかったところがいいんです(厄介オタク)

加えて、ネットでよく見る、スネイプよりもハリーの父親ジェームズの方がいじめっ子でヤバい的な言説に関してですが、これも先述した「選択」につながる話だと思います。学生時代、ジェームズがスネイプをいじめていたことは紛れもない事実で、ジェームズが見栄っ張りで浅はかだったことは間違いないと思います。それでも、彼は自分で自分の過ちに気が付いた。反省して、不死鳥の騎士団として闇の陣営と闘う道を選んだ。成長してからは「易き道よりも正しい道」を選択し続けたからこそ、リリーに選ばれたのだと思います。リリーにとってはどちらも論外だった(なんならセブルスの方には情があった)状況から、変われないまま大人になって彼女を殺す一手を選んでしまったスネイプと、変わって彼女に選ばれ、彼女を守ろうとして殺されたジェームズ。その後の「選択」を認識していれば、ジェームズよりスネイプの方がいい人だ、なんてことは言えないんじゃないでしょうか。リリーを殺したのはもちろんヴォルデモートだけど、それを確定に至らせる一手は間違いなくスネイプが選択したんですよ。そして彼はリリーを守って死ぬことでその過ちを清算することも叶わなかった。哀しい人ですよね。普通にジェームズ単体で好きになれないという人には何も思わないけど、スネイプと比較されると反論したくなってしまう。

ダンブルドアについて

話は飛んで、私の敬愛するダンブルドアの話に移ります。賢者の石の最後に、ダンブルドア校長がハリーの健闘を評価してグリフィンドールに大幅な加点を行い、結果グリフィンドールがスリザリンに逆転勝ちするシーンがありますよね。定期的にこのダンブルドアの加点を「贔屓」「スリザリンが可哀想」とするツイートがバズっている印象があるのですが、これにもいろいろ口を挟みたい。

まず大前提として、原作と映画ではハリーの学校生活の描写がだいぶ違うと思います。原作のハリーは賢者の石のことを探る過程でだいぶ校則を破り、度重なる失点によってグリフィンドール生からめちゃくちゃ嫌われるんですよね。どのぐらい嫌われていたかというと、ロンのお兄ちゃんである双子のフレッドとジョージでさえハリーとは目を合わせなくなるくらい。元々有名人だった分その反動は大きくて、1巻後半のハリーにとってホグワーツはまさに針のむしろだったわけです。ついに賢者の石の真相にたどり着いたハリーは、退校になるからと止めるロンとハーマイオニーにヴォルデモート卿が復活したら退校もクソもない(ニュアンス)と反論し、退校になる、なんなら死ぬ覚悟で賢者の石を守りに行きます。たった12歳の子供たちが、平和を守るために必死に闘うんです。そして、ヴォルデモート卿の片鱗に見事打ち勝った。魔法界を守った功績はもっと大っぴらに表彰されてもいいくらい大きなものなので点数はむしろ少ないくらいだと思います。校則破ってマイナス5点とかですよ。世界中の平和を守って60点は少ないでしょ。

みんなの前で点を貰って称えられることで、ハリーは名誉を完全に回復するので、そういう意味でもこのイベントはストーリー上絶対必要だったと思います。ずっと歯がゆい気持ちで物語を読んできた身としては、あの瞬間のカタルシスは最高だったし、あれがなかったら読後感がだいぶ悪いことは目に見えているので……非難されても仕方ない点があるとすれば発表のタイミングですが、フライングしてグリフィンドールの飾り付けにしておくのはやりすぎだし、ハリーがずっと医務室に入院していたので加点を早めるのも難しかっただろうし、どうしようもなかったんじゃないかな……正直、私は明確にダンブルドア贔屓なので反論があれば甘んじて受けいれますが、総じてあの加点は妥当だったと言えるんじゃないでしょうか。

このエピソードから派生して、ダンブルドアはハリーを贔屓してたとかグリフィンドールを贔屓していたとか言われがちですが、これもツッコミどころ満載です。ダンブルドアがグリフィンドールを贔屓してたなら、ハリーの入学前の六年間連続でスリザリンが寮杯を勝ち取ることはなかったでしょうし、贔屓はよくないと言うなら不当にグリフィンドールから減点してスリザリンに加点しまくるスネイプの批判をまずして欲しいですね。「きみに負担をかけたくなかった」からハリーを監督生にしなかったと語るダンブルドアを知っていればハリーを贔屓して加点したなんて言えないはずだし、そういうダンブルドアの性質を加味するとむしろ、ハリーが反感を買わないように贔屓して点数を少なめに見積ったんじゃないかと思います。ダンブルドアのことを神か何かだと勝手に思い込んでちょっとした粗を叩くのはやめてくれ(本音)

おわりに

キャラの悪口言うならその前に原作読んでください、というだけの内容に6000字も書いてしまいました。総じて映画の悪口みたいになっちゃったけど、映画も好きだしスネイプもまあまあ好きです。ただ原作に辿り着いてない人が大好きなダンブルドアの悪口を言ってるのが許せないだけなんです。

映画でカットされてるシーンが多いとか、印象が違う部分があるとか、そういうのもあるんですけど、ハリーポッターってやっぱり面白いんですよ。ハリポタの映画が好きな方なら(そして映画だけで話を理解できる理解力の方なら)原作絶対面白いと思うんです。お節介なのは重々承知ですが、知らないのは勿体ないから是非読んで欲しい。児童書なので文も易しいし、ブリティッシュなブラックジョークがいいテンポ感を演出してるので、見た目の分厚さの割に読みやすいと思います。ちょっとでも興味あったら好きな巻だけでもパラパラして欲しいです。

それから、赤坂でロングラン公演中の舞台「ハリーポッターと呪いの子」もよろしくお願いします。ハリポタ本編の話を知ってても知ってなくても楽しめる最高の魔法の世界です。ストーリー自体はハリポタの影の要素が強いのでそこも面白いです。ハリー役が錚々たる面々なのでミーハー心も満たせます。向こう数年はやってるはずなので、今すぐには難しい方もぜひ、心の片隅かブラウザのブックマークにでも留めておいてください。

舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』 | 公式サイトwww.harrypotter-stage.jp

映画派の方々を否定したいわけではないということを最後にもう一度書き添えておきます。映画のワクワクする世界観と映像は素晴らしいですし、キャラもキャストも魅力的です。それに、USJのハリポタエリアやとしまえんの跡地にできる施設なんかは基本映画準拠なので、正直原作を読んでなくて困ることってないと思うんです。だけど、誰一人完全な善人はいないリアリティと、フィクションの華やかさが絡み合うハリーポッターが楽しめるのは原作だと思うから、やっぱり私は原作を薦めたい。それと、活字で読んだ方が情報が自分のペースで取り込めるので、情報量の多いハリポタは原作の方が理解しやすいのではないかと思います。

これを読んで原作触れてみようかなと思ってくださる人が1人でもいたら、それに優る喜びはありません。冗長な文章にお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

 

 

 

*1:以下引用する文言はすべて「ハリーポッターと炎のゴブレット」組み分け帽子の歌より抜粋

「推し」と恋愛

推し*1に向ける感情と恋愛感情は別物であるというのが私の持論である。

私が「推し」という概念を獲得したのは高校生の時だった。例えば同じクラスや学年の人に「推し」という言葉を用いるとき、私にとってそれは「恋愛感情ではないが強い好感を持っています」という意思表示だったし、今でもそういう区別をしている。

しかし、改めて自分のオタク遍歴と恋愛遍歴を遡ってみると、見事なまでに「恋愛」に傾いている時期と「推し」に傾いている時期が互い違いになっている。恋愛に苦しんでいた高校時代は、生活スタイルが変わって当時の推しだった嵐から少し離れていた(そして活動休止発表があって関わり方が少し変わった)時期だったし、アイドリッシュセブンにハマったときは恋人が受験生で、他に拠り所を探していたタイミングだった。考えれば考えるほど、「推し」を推す代わりのようにのめり込んだ好きな人や、恋愛から逃げるように没頭した「推し」がいて、これで「推しと恋愛は別物」というのはなかなか無理があるのでは?というところに着地した。

とはいえ、推しに向ける感情と恋愛感情はやっぱり違う気がする。どちらも「好き」ではあるが、推しと付き合いたいか、触れ合いたいかと聞かれたら答えはノー。できるだけ認知されずに近くで拝みたいのが推し。好きな人には自分に興味を持って欲しいし、好きになって欲しい。自分の生活を共有したいし、一緒に食事をしたり歩いたりしたい。でも、どちらも応援したい、幸せで健やかでいて欲しいと思うところはよく似ている。なかなか難しい。

感情の差別化が難しいのは、感情の分類がそもそも現実的ではないからだと思う。そもそも、何となく世間で共有されている「恋愛の好き」はあまりにも曖昧かつ限定的で、それにそぐった感情を抱く人は案外いないのではないだろうか。いたとして、そこに世間の「常識」の影響を全く受けない、自分だけの感情は存在しないのではないかと思う。そもそもそんな独立した感情は存在しないという気もするが。

感情で差別化できないのであれば、関係ならどうだろう。

簡単なのは圧倒的に「推し」との関係だと思う。相手がそれを生業にしている場合は特にそうで、「好き」をどうやって示せばいいか、最低限の選択肢が最初からある。テレビや雑誌を追いかける。CDを買う。YouTubeを見る。曲を聴く。ライブに行く。本人に還元される、推奨される「好き」を示すための行動というのは予めある程度用意されていて、なおかつそれをどの程度採用するか、あるいはどの程度の熱量で取り組むかというのはこちらに委ねられている。相手は私がいてもいなくても、応援していてもしていなくても仕事をしていて、勝手にそれを見て喜ぶことが許され、場合によっては歓迎される。なんて楽なんだろうと思う。*2

と同時に、私が熱心に応援しているときの方が、得られる喜びや感動は確実に大きい。つまり、リターンがちゃんとあるのである。応援しなくても相手に大きな迷惑はかからないが、応援していると嬉しいことがありますよ、という美味しい話。当たり前だが、美味しい話には裏があるもので、嬉しさが大きい分、嬉しくないことが起きたときの悲しみや喪失感も大きくなる。もちろん嬉しくないことの程度にもよるが、私はやっぱり基本的には嬉しいリターンの方が大きいのではないかと考えている。何はともあれ、「推し」とファンは相互関係にありながら、適度に責任から逃れられるwin-winな関係である(という都合のいい見方ができる)のではないだろうか。

恋愛関係はそうはいかない。「好き」と伝えることには責任と加害の可能性を伴う。相手は私に好かれるために生きているわけではないので、私の存在が厄介な場合もあるし、そういう場合の対処法も知らない。相手も「好き」でいてくれたとして、それが私の「好き」と寸分違わず合致することはまずないだろう。*3となると、交際するのであればその相手の「好き」をちゃんと見極める必要があるし、それときちんと向き合う必要があるということになる。相手もこのぐらいの気合いを持ってきてくれるとスムーズだが、なかなかそんな人はいないし、恋愛感情が混ざってくると冷静にそんなことを考えるのは困難なことが多いので、これを実現することはやはり難しい。

そもそも、人間関係を真剣にやろうとした場合、恋愛感情というのはノイズでしかない。相手の人となりを見極める作業が好きなところ探しになってしまうし、仲を深めるときも多少無理してでも相手に合わせようとしてしまう。最初にした無理はのちのち響いてくるし、見極めが甘いと後から嫌な部分が出てくることもある。そう考えると、恋愛感情を基に長期的な関係性を築くのは超非現実的なことのような気がしてくる。そもそも恋愛というのは一過性のもので、長く続ければいいというものでもないのかもしれない。

極めて個人的な話になるが、私は所謂恋愛体質というやつで、小学五年生のときから大学二年生になる今まで、「好きな人」がいない時期はほとんどなかった。気が多いというのでもなくて、一度好きになると割と長く引きずるタイプである。かつて好きだった人たちに対してどんな欲を持っていたのかはわからなくなってしまうが、好きだったところは覚えているし、幸せでいて欲しいと思っている。ただ、好きだった頃のように執着したり時間を費やしたりすることはできないので、たまに思い出す程度の存在感に留まっているし、もう「好きな人」ではないなと思う。

その点、歴代の「推し」は時間やお金のかけ方にばらつきはあれど、全員現役選手である。幼稚園の頃から「あらしのなかではまつじゅんがすき」と言っていたらしい*4し、小中学生のころに惚れたダンブルドアには未だに狂わされている。一昨年のプリキュアのまなつちゃんだって今も大好きだ。SixTONESのことも大我さんのことも、きっとずっと好きなままだと思う。

何が違うんだろうと考えたとき、その違いはやっぱり関わり方なんだと思う。好きなときに好きなだけ、好きなように関わることが許される「推し」との関係と、相手にある程度影響する/されることが避けられない=責任が生じる恋愛関係を比べたとき、私が得意なのは圧倒的に前者だ。「推し」と私の関係は片思いと似ているけれど、片思いよりも相互的で、肯定されやすいと感じる。だから、私にとって「推し」は関わりやすい存在で、長く関わりを続けやすいんだと思う。

あまり誇れることではないが、私はあまり自分の軸がないうえに怠惰な人間なので、推しも好きな人もいない生活だと布団から出なくなる気がする。何ならずっと寝ていると思う。だけど、好きな人や推しがいるとその数だけ私の内側と外側に視点が増えるので、見るものや知りたいことが圧倒的に増える。例えば、サッカー部の人が好きだったとき、熱心に読み込んでいた体育の教科書のサッカーの項目。好きな人に勧められて始めた世界地図パズル。推しが解説を書いているから買った本。推しが実写ドラマに出るからと読み始めた漫画。推しのせいで目に入るようになったうさぎやくまの形をした可愛らしいお菓子。推しグループのメンバーが出ているからと観に行った舞台。推しが歌っていて聴くようになった曲。推しの音楽をスマホで聴きたいから覚えたCDの取り込み方。そういう、彼らと出会わなければ知らなかったはずのものが私の中にはたくさんある。それがなくては今の私や生活は存在し得ないと思う。だから、私にとって推しと好きな人は基本的に代替可能な存在なのかもしれない。そして、どちらも存在しない状態では、入力情報不足で満足に動くことができないのかもしれない。

私の狭い視野や凝り固まった視線を外に向けてくれるのはいつだって私ではない人で、そうさせてくれる人には心の底から惚れ込んでしまう。面白そうな他人を追いかけて、同時にその視点を取り込むことで、私の人生は成り立っている。私の世界は、特別な他人の継ぎ接ぎによってできている。

私をワクワクさせてくれて、見たことのない景色を見せてくれる人しか好きになれない。そういう人だから、好きになるし、特別になる。そういう意味では、向ける感情こそ違えど、私の中では「推し」も「好きな人」も近いところにいるのかもしれないなと考えた。

 

 

 

 

(3619字)

 

*1:そもそも「推し」とは何なんだという話だが、今回はジャニーズ以外の人も含むので担当ではなく推しという便利な表現で書いてしまった

*2:「推し」の活動形態や規模によってはこういう無責任な関わり方は難しいのだろうと思う。そういう点で、ジャニーズという大きな組織に所属する人を推すのは気楽で、私のニーズとピッタリ合う

*3:そんな奇跡的なマッチングがあったとして、その2人がする恋愛は全然面白くないだろうと思う

*4:ただの面食い女児

最強の6人と出会った夏

 

SixTONES沼落ちブログです。

あまり推敲していないので読みづらいかもしれません。ご容赦ください。

 

はじめに

SixTONESの話をする前に、私のオタク遍歴の話を少し。

アイドル、およびジャニーズとの出会いはでした。私は、親の影響で、小学生の頃から嵐が好きです。周りにジャニオタが多かったこともあり、そんなに詳しくはないけどジャニーズ全般けっこう好き、というジャニオタ未満の嵐ファンでした。ライブは当たらなくてなかなか行けないけれど、家の車ではずっと嵐が流れていたし、ライブDVDも家族で見て、VS嵐嵐にしやがれも毎週見て、物心つく前からそんな風に嵐と密着した生活をしていました。そんな嵐の活動休止は、大袈裟でなく天変地異のようなもので、そこを契機にアイドルとの関わり方、それからアイドルとは何か、みたいなことを悶々と考えるようになりました。休止に向かって駆けていく嵐を必死で追いかけながら、いろんなことを感じて、考えました。ただ、それを上手く言葉にすることができなかった。感じたはずの大切なものを取りこぼしているような感覚を拭えないまま、私は2021年を迎えました。絶賛受験生だった私はその感覚と向き合う余裕がなく、受験が終わる2月頃までそれは心の隅に放置されたままでした。

受験が終わったタイミングで、私はアイドリッシュセブンというコンテンツに出会います。アイドリッシュセブンはアイドル育成アプリゲーム(実際には育成要素はゼロ)で、シナリオがとにかく良いから読んでくれと友人にゴリ押され、私アイドルに関しては地雷多いんだけど……今センシティブな話題なんだけど……と思いつつ読み始めました。結果、本当にシナリオが良かった。圧巻でした。私が嵐を見ながらぼんやりと感じていた、言語化できなかったあらゆる感情が、全部書いてあるシナリオだと思いました。長くなるので詳細は割愛しますが、アイドリッシュセブンを経由した私は、一旦ひとつの結論にたどり着きます。

アイドルは素晴らしいけれど、私はもう3次元のアイドルは応援できない。

嵐は、ものすごく手厚いホスピタリティを持って、ファンにたくさんの愛を惜しみなく、絶え間なく注いでくれるアイドルです。いつもあったかいお風呂を用意して待っていてくれて、いい匂いのバスソルトも入れてくれるしお風呂洗いまでやってくれるし、みたいな感じ。変な比喩ですが、とにかく嵐を見ている間って余計なことは何も考えなくていいんです。何も考えなくても、何もしなくても、嵐はいつだって期待以上のものを与えてくれる。至れり尽くせり、という言葉がぴったりのアイドル。そうやって嵐に甘やかされてきた私には、3次元のアイドルを本気で追いかけるのは無理だ、と思ったんです。メンバーの脱退や休止、解散、病気、怪我、スキャンダル。山ほどある不確定要素が怖すぎる。嵐でさえ活動休止するんだから、安心して浸かってられるところなんてあるわけないと思いました。新しいアイドルを開拓するには私はひ弱すぎる。アイドルは変わらず大好きだし、応援しているときの高揚感は素敵だけど、きっといつか、必ず辛くなってしまうだろう。だったら、最初から距離を取っておこう。遠くから、ぼんやりその光を見ていよう。のめり込むのは2次元だけでいい。3次元のきらめきは嵐だけでいい。そういう思考を経て、私はドルオタ的隠居生活に向かってハンドルを切りました。

SixTONES

さて、時は流れて2022年。私はSixTONESと出会います。

出会い、と書きましたが、もっと前から存在は知っていました。SixTONESが好きな友人がいるので、勝手にぼんやりとした好感は持っていて、「Imitation Rain」はサビ歌えるぐらいには知ってたし、メンバー全員顔と名前くらいはわかってたし、「マスカラ」もカッコイイなと思いながら音楽番組で見ていたし。ただ、メンバーの性格だったり、グループの雰囲気だったりは全く知りませんでした。いかつくてオラついてるのにすごい歌が上手い若い子たち*1だという認識で2年くらい止まっていました。よくよく思い返すと音楽番組で聴いた「Imitation Rain」の転調部分が耳に残ってYouTubeにMVを見に行ったことがあったんですが………まあ、そこから広がることは特になく、つい数ヶ月前まで過ごしていたわけです。

YouTubeの履歴にちゃんと残ってました

それが一変したきっかけが、先述したSixTONESが好きな友人です。彼女にアイドリッシュセブンのシナリオを読んで欲しいと交渉したところ、じゃあ代わりにSixTONESYouTubeを見て欲しい、プレイリストは作るから、と言われ、彼女のおすすめには興味あるし、と軽い気持ちで承諾しました。

最初に見たのは以心伝心ゲーム。

youtu.be

勝手にクールな感じを想定してたので、出だしの「ど〜も〜!SixTONESで〜〜す!」の時点で、思ってたのと違うんですけど!?とビビりました。陽気すぎる。声デカくない? 

動画を1本を見終えた感想は、思ったよりスルスル見れそうかも!でした。みんな面白いし、田中樹さんの回しが上手いから飽きないし、一軍ゆえにめちゃくちゃ好き勝手する仲良し男子グループを見てるみたいで楽しいし。てか田中さんがこんなガッツリMCなんだ……とも思いました。あと、最大の目標は?の回答で誰もデビューって言わなかったところになんかグッと来ました。

そこから毎日SixTONESYouTubeを見続けました。私は元々映像コンテンツがあまり得意ではなく、動画をそんなに一気に見ることはないのですが、あまりに面白くてかわいくて止まらなかった。久しぶりに声を出して笑いました。

リア垢のSixTONES初登場ツイート

この時点で見事なフラグが立っていました

ここまでは面白いコンテンツ見つけた!楽しい!程度で済んでいたのですが、今ブログで京本さんが質問コーナーやってて面白いよ、と教えてもらったことで、一段階ギアが入ってしまいます。入るタイミングを逃し続けていたJohnnys web*2 に勢いだけで加入して、京本さんに興味を持つようになりました。というかもう、「俺、別に可愛いキャラのつもりはないからね。たまたま顔がカワイイだけで……」で完全に好きになってしまった。動画では静かに綺麗に佇んでるだけだったのに……たまにかなり飛んだ発言があるなとは思っていたけれども……

ブログでパーソルな部分が見えてくると動画にも違う面白みが出てきて、既に見たものを見返したり同じシーンを何度もリピートしたりし始めました。このあたりでだんだんSixTONESが好きという感情を無視できなくなってきます。オラついてるから対象外だと思ってたのに、品があって面白くて可愛いから……そんなの好きになっちゃうじゃん……

そして、MVを見たことでさらにギアが入ります。最初に見たのは「Strawberry Breakfast」でした。今思うと最高のスタートすぎますね。

youtu.be

MVやライブ映像を見たら好きになってしまうのではないかと薄々感じていたのですが、予感的中。イントロの、京本さんにカメラが寄るところで一緒にぐっと引き寄せられた瞬間、心臓がギュッとなったあの感覚、忘れられません。コンタクトが外れそうになるぐらい目をかっぴらいて画面を眺め、京本さんが映るたびに動揺して、最後のウインクで悲鳴をあげ、そのままリピート再生。曲がおしゃれ。みんな魅せ方が上手い。歌が上手い。声がいい。スタイルめっちゃいい。踊りも上手い。衣装もセットもカメラワークもすごくいい。6人並んでるところ、カッコよすぎる。

SixTONES、めっちゃカッコイイんだけど!?

そこからMVをめちゃくちゃ漁りました。あんなにYouTubeと時代に感謝したことはありません。無料で、勢いに任せて次々見れる環境がなかったら理性が勝っていたかもしれない(嘘かも)。「Imitation Rain」の転調パートに大興奮して、「マスカラ」の歌割りに拍手を送り、知らない曲も聴いてみようと「Lifetime」を再生。

youtu.be

荘厳な雰囲気。青髪でポケットに手を入れているのに神々しいジェシー。彼の優しい歌声に惹き込まれて、何となく居住まいを正しました。綺麗な曲だな。歌声が堪能できていいな。慎太郎くん声甘いな。そんな感想は京本さんのソロパートが始まったところで全部吹き飛びました。

'Cause now you're my blessing of a lifetime

Lifetime/SixTONES

心臓に直接触られてるみたいな歌声でした。心が震えるってこういうことなんだ、とわからされるような歌でした。ほとんど歌詞が入ってこなくて(音楽は圧倒的に歌詞で楽しむタイプなので本当にレア)、申し訳ないけれどその後サビまでは放心状態で全く音が入ってきませんでした。私が意識を取り戻したのは"ここから重なる Lifetime"のところ。ここを聴いたとき、私の人生とSixTONESが今重なった、とはっきり思いました。ここから私は、SixTONESと生きていくんだ、と確信しました。あそこで私はSixTONESと結婚*3したんだと思っています。

このあたりで抗うことを完全に諦めて、何度YouTubeにオススメされても退け続けていたライブ映像の再生ボタンを押しました。最初に観たのが「Special Order」

youtu.be

SixTONESは大好きだけどオラオラ系のパフォーマンスはそこまで刺さらないだろう……という愚かな思い込みが一瞬で吹き飛びました。体温42度ぐらいになったんじゃないかってぐらい血が滾って、ないペンラを振り回して、SixTONES世界獲った!?と叫んで、そのままツアーの時期を調べました。ああいう曲の楽しさを教えてくれたSixTONESには本当に感謝してます。次のツアー絶対行きたい。

3次元アイドルに怯えていた私がこんなに勢いよくSixTONES沼に飛び込めたのは、彼らが最強にチャーミングだからなんだと思います。もちろん他に細々とした要因はあって、それは例えば本人たちが誰より6人でいることを大切にして楽しんでいる様子であったり、ブログの距離感であったり、ラジオの様子であったり、そういうものを勝手に自分にとっての安心要素として解釈して自分にGOサインを出したわけですが、それでもやっぱり彼らの強みは圧倒的なパフォーマンスだと言いたい。歌や踊りの技術の素晴らしさは言わずもがな、あらゆるメディアにおける魅せ方、彼らが選んで見せてくれるものすべてがパワフルで魅力的だから、私は彼らにどうしようもなく惹かれているんだと思うし、だからこそ彼らの未来を見たいと思っている。んだと思います。正直こんな勢いで何かにハマったのは初めてで、自分の中でもうまく処理されていないのですが、今はそう思っているということを残しておきます。

おわりに

新しいコンテンツに対してはけっこう慎重な方だと思っていたのですが、SixTONESに関してはバケツで水ぶっかけられて腕引っ張って立ち上がらされてそのまま走り出した……みたいな感じで疾走感がすごい。でもそれが新鮮で楽しいです。

そんなこんなで完全に沼落ちした私、めでたくFCも入会しまして、CDも少しずつ買い集めはじめました。ブログ毎日読んで、ANN毎週聞いて、「夏の夜の夢」観に行って、雑誌買って、「Feel da CITY」買って、バカレア見て、「Good Luck!/ふたり」は全形態予約して。SixTONESまみれの毎日を送っています。余談ですが、今私のクローゼットの中にはピンク色の服が2着入っています。半年前には1枚も持っていなかったのに.....

.不確定要素があるのは今でもやっぱり怖いけど、どんな未来も受け止めてやろうじゃないの、と思えるほどSixTONESに惚れ込んでしまったので、私なりに彼らを応援し続けようと思います。

ここから彼らの進む道を、リアルタイムで追いかけていけることが幸せです。それから、アイドルって最高だ、ってまた思えるようになったことも。SixTONESのおかげで、私の世界は広がっているなと感じています。

冷めない熱を確かに感じて今  始まった

終わりはまだまだ  遥か先の方だ

ST/SixTONES

 

これからよろしく、SixTONES

SixTONESに幸あらんことを!!!!!!

 

 

*1:どうしても嵐基準でジャニタレを見てしまうので「若い子たち」と思ってました。その印象のせいか、実際にはひと回り近く歳上の人たちだという現実が未だに受け入れられない

*2:Johnnys web ってすごくよくできたコンテンツだなと感心しました。更新頻度やデザイン、文体や分量に個性がギュッと詰まっていて、読んでいるだけで人となりがわかったような気分になれる。会員制だからプレミア感もありつつ、全タレント分読めるシステムにすることで関心が広がりやすい。リプライ機能などがなくあくまで一方通行、そして時差投稿かつ検閲アリなので適度な距離感は保てる。すごい。

*3:文字にするとだいぶ重くてしばらく言い換え表現を探したのですが、私の語彙では結婚としか説明できなかった。ひとつになることはできないけれど、SixTONESという概念と人生を共にすることを選んだ、というニュアンスです。契約の意味合いは含みませんが、唯一無二の関係であるという意味は含みます。説明すると余計重い

アルバス・ダンブルドアと麒麟のお辞儀

私がハリーポッターと出会ったのは小学生の頃。鮮やかに、緻密に、でもダイナミックに描かれる魔法の世界にあっという間に引き込まれて、取り憑かれたように死の秘宝まで読み進めたあの衝動は、それから10年以上経つ今も忘れられない。ハリーポッターシリーズは私の読書人生で圧倒的なナンバーワンであり、オンリーワンである。

とにかくストーリーが面白くて、何度も何度も読み返すうちに、だんだんと特定のキャラクターに惹かれるようになる。それが、アルバス・ダンブルドア。私の、人生初の推しである。

ダンブルドア先生は、文句なしに魔法が上手くて強い。だけどそれをひけらかしたりしないし、魔法省に媚びることもしない。それでいて、自分の能力の高さには自覚的で、必要以上の謙遜は一切しない。影の薄い生徒の名前もちゃんと覚えて気にかけているし、誰に対しても礼儀正しい。賢くて何もかもを見通しているようでありながら、ユーモラスで親しみやすい。レモン・キャンディーのように酸っぱいのに甘ったるくて、身近だけれど少し扱いづらいダンブルドア。一度意識し始めると止まらなかった。ダンブルドア先生、カッコいい。こんな先生が私の学校にもいたらいいのにな。そう思い始めるまで一瞬だった。

中学校に上がって、ハリーポッターが好きな友達が何人かできた。この話が面白いよね、この巻が好き、このセリフに感動した。そういう話の流れで、「ダンブルドア先生が好き」と話した。わかる!カッコいいよね!というリアクションを想定していた私は、友人たちの微妙な反応に驚いた。正直に言うと、ショックだった。こんなにカッコいいのにどうしてだろう?腑に落ちないながらも、それ以上なんと言っていいかわからず、口を閉ざした。

高校生になって、ネットでハリーポッターが好きな人の呟きや文章を探して読むようになった。ダンブルドア先生が好きな人もたくさん見つけて、やっぱりそうだよね、とテンションがあがると同時に、そうではないコメントも少なからず見かけた。ダンブルドアがこうしていればこんな不幸は起きなかったはずだ、ダンブルドアはハリーを贔屓しすぎ、といった非難は嫌でも目に入ったし、全部お門違いだと思った。反論している人もたくさんいて安心したが、それと同時に、同じものを読んでも抱く印象はこんなにも違うんだと衝撃を受けたのを覚えている。

アルバス・ダンブルドアという人は、ハリーポッターという物語のキーパーソンであり、神のようなキャラクターなのだと思う。ダンブルドアは全てを知っているし、何でもできる。ダンブルドアなら解決してくれる。そう思わせる実力と実績が間違いなくあったからこそ、過剰な期待と批判が集まるのだ。それは、物語の世界の中でも、この世界でも同じである。

ハリーはダンブルドアをよく知っているつもりだった。(中略)ダンブルドアの子どものころや青年時代など、ハリーは一度も想像したことがなかった。最初からハリーの知っている姿で出現した人のような気がしていた。人格者で、銀色の髪をした高齢のダンブルドアだ。

ハリーポッターと死の秘宝」追悼

ハリーポッターシリーズの終盤に差し掛かると、神だったアルバス・ダンブルドアは徐々に人間としての一面を見せ始める。ダンブルドア先生にも怖いものがあり、できないことがあることがだんだんわかってくる。そして、ダンブルドアは死ぬ。彼の死の描写によって、アルバス・ダンブルドアが紛れもなく私たちと同じ人間であることを私たちは知らしめられたはずなのに、どうしてそんな無責任なことが言えるのだろう。疑問だったし、悲しかった。ダンブルドア先生は誰よりも強くて、カッコよくて、孤独だったのに。ネットを彷徨ううちに、ダンブルドアとゲラート・グリンデルバルドとの関係がJKRに明言されていることを知った私は、より一層その気持ちを強めることになる。大好きな人が愛に不器用で、他人に理解されにくい人であることが悲しくて、そしてたまらなく愛おしかった。

私のアルバス・ダンブルドアに対する気持ちは恋ではないと思う。恋に限りなく近いかもしれない、憧れと尊敬の対象である。少なくない学生が経験するであろう、学校や塾の先生に抱く仄かな恋心のようなものに似ていると、私自身は思っている。

私が中学生の頃、ファンタスティックビーストシリーズがスタートした。当時はゆるふわ動物たちが主人公のほんわか日常系スピンオフだと勝手に思っていたため、なんの気負いもなく映画館へ行ったのだが、それは大間違いだった。作中の魔法や、映像技術はパワーアップしているものの、そこには紛れもなく、小学生の私が夢中になったウィザーディングワールドがあった。若かりし頃のダンブルドア先生は思っていたより大分出番が多く、原作ままのキラキラいたずらっぽく輝く青い瞳や、生徒に慕われている様子が見れることが嬉しかった。ファンタスティックビーストの続編を待ち続ける月日が始まった。2作目、終盤の爆弾を受け止めて、もしかして次作、ダンブルドアがメインになるのでは……という淡い期待を抱かされるも、様々な不測の事態でによって延期が重なり、歯がゆい思いもした。そして、去年。やっと3作目のタイトルが発表された。「Fantastic Beast and The Secret of Dumbledore」邦題は「ファンタスティックビーストとダンブルドアの秘密」。

正直なところ、ものすごく期待した。ついに、パーフェクト・プロフェッサー・ダンブルドアではない、アルバス・ダンブルドアという一人の人間にスポットライトが当たるかもしれないと思うと待ちきれず、短い予告映像を何度も見て、今か今かと公開を待った。紆余曲折を経て公開されて、劇場に足を運んだ。自分が何かをするわけではないのに、緊張したし、手が震えた。照明が落ちて、予告が終わって、待ちわびたダンブルドアの物語が幕を開ける。

約2時間半。すごく面白かったし、盛り上がるところや、感動したところがたくさんあった。痺れたシーンもあった。そのはずなのに、見終わった瞬間、私はたまらなく寂しい気持ちだった。ダンブルドア。私の大好きな、アルバス・ダンブルドア。彼は、既に限りなく孤独だった。何もかもを見透かしているのに、決してそれを他人と共有しない。黙って信頼してくれと、悪いようにはしないから私に任せてくれと、そう言う。スキャマンダー兄弟には少しシェアしていたけれども、結局、彼は祝いの輪には混ざらない。彼がひとりで街を歩いてレストランに向かうところから始まり、ささやかだけれども賑やかで幸せに満ちた宴に背を向けて、ひとり闇夜の街へと消えていくところで終わるこの映画は、何と残酷なのだろう。そう思った。それに不満がある訳ではない。それこそがダンブルドアという人の生き方で、それを丁寧に描いているだけだから。ただただ、それを寂しいと思った。

私がFB3の中でいちばん鮮烈に記憶しているのは、麒麟ダンブルドアにお辞儀をするシーンである。どことなく覚束無い足取りで、でも確かな意志を持って、アルバス・ダンブルドアの足元に歩み寄り、跪く麒麟の姿が、その美しさが、脳裏に鮮やかに焼き付いている。私はその光景を見て、痺れるような感覚に襲われながら、これが見たかったのだ、と思った。アルバス・ダンブルドアという人間が選んできた道が肯定される瞬間。自分の好きな人の素晴らしさが上手く伝わってないことがずっと不満だった私にとって、あの麒麟のお辞儀は祝福そのものだった。彼が選び続けた孤独や正義が、その蓄積で出来上がったダンブルドアが、麒麟の目に清らかなものとして映ったことが嬉しかった。これを見るために生きてきたんだ、とまで思った。アルバス・ダンブルドアの人生は決して真っ白ではなかったかもしれないけれど、それは紛れもなく清廉で、誠実なものだった。それがきちんと描写されたことを、私は嬉しく思う。この描写を経て、私はやっと、アルバス・ダンブルドアという人の一生を、彼の死に様を、受け入れられたような気がしている。

「ファンタスティックビーストとダンブルドアの秘密」を観てから、もう何ヶ月も経つ。FB3は私の中で徐々に消化されている。寂しさは未だに残っているけれど、結局私にとってダンブルドアという存在はこの寂しさと切り離せないものなのだろうという結論に至った。今は、寂しさと、あの美しい麒麟のお辞儀を胸に抱いて生きていこうと思っている。

そして私は、ダンブルドアに愛を叫びたいと思った。ダンブルドアの生き様がどんなに素晴らしいかを私なりに示したいと思った。彼を愛していると、言葉にすることを選びたいと思った。

 

この文章は、私にとって、アルバス・ダンブルドアへの追悼文であり、ラブレターであり、深い深いお辞儀である。

 

最後に、私の人生の指針のひとつであるダンブルドアの言葉を引用させてほしい。

もちろん、きみの頭の中で起こっていることじゃよ、ハリー。しかし、だからと言って、それが現実ではないと言えるじゃろうか?

ハリーポッターと死の秘宝」キングズ・クロス

遍くエンターテインメントは嘘によって成り立っている。しかし、虚像であっても、架空であっても、それは私たちにとって紛れもない現実である。フィクションもファンタジーも、たしかに私たちの世界と繋がっている。人を愛し、文化を敬い、夢を見て生きることを、否定したり、軽んじたりするような世の中になってほしくないと思う。

9と3/4番線には入れなくとも、私には本があり、映画がある。いつでもそこにダンブルドア先生がいる。それにずっと救われているから、ファンタジーやエンターテインメントが持つ力を信じずにはいられない。きっと一生そうだと思う。現に、私が今好きだと思う他の人たちも、エンターテインメントの力を信じ、活かそうとする人ばかりだ。

私は、愛する彼らを、エンタメを、杖灯りのように掲げて生きていくことを選択したい。それが私なりの正義であり、ダンブルドア先生から学んだことに対するアンサーである。

 

 

 

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