夏日陰

暑い。暑さに弱いわたしにとって、嬉しくない季節がやってきてしまった。夏は自分の身体がいつも以上にコントロールできないところが苦手だ。どんどん出てくる汗とか、日光に体力を持っていかれる感じとか、食欲が冷たい麺類に傾いてしまう感じとか。近年、食べない、ということがいかに心身の余裕を削ぐかということを実感しつつあるわたしにとって、食欲が減退することは好ましくないのだが、ないものはないのでしょうがない。

食べるという営みについて、京本大我さんと出会う前と後では少し関わり方が変わったように思う。大我さんは食べる人だ。食べて、そのエネルギーで生命を輝かせている人だ、と思う。食べることが好きなこと、食に対してとても前のめりなことは、彼の言動の端々から伺える。YouTubeでも、食べ物が絡んだ途端にイキイキしはじめる様子をよく見る。美味しそうにもりもり食べる人がたまらなく魅力的だということを、わたしに教えてくれたのが大我さん。

好きになったばかりの頃、束の間の一花の役作りで食事制限をしていると話していた。食べることに真剣な彼にとって食事制限はどれだけしんどかっただろう、と思う。カレーを食べるシーンの、喜びが隠しきれていない笑顔が印象強くて、あのお顔を思い出すたびに、しんどかったんだろうな、と思う。

ご飯を食べている大我さんはいつもキラキラしていて、かわいくて、生きてる人だ、と感動する。パフォーマンスの迫力や歌の力強さやぎゅっと力のはいった笑顔や、芯の通った言葉や、そういう端々からみなぎって伝わってくる生命力は、こうやって食べるところから湧いてくるのだと勝手に信じ込んでいる。

最近になって、過去の舞台の期間中、食べ物が喉を通らずゼリーしか食べていなかったことを知った。本人が「胃腸が弱い」と話しているのを聞いた。あたるのが怖くて大好きな牡蠣を何年も食べていないことを知った。よく考えたら、わたしの大好きな束の間の一花の撮影中も、もりもり食べてなどいなかったはずで、私が思っているより彼の食欲と生命力は直結していないのかもしれない。

だけど、フェスと大型音楽番組の間に生クリームバナナクレープを食べたり、夏バテしてると言いながらもりもりご飯を食べていることを教えてくれたりする大我さんがいるのも事実だ。かわいい。かわいいし、やっぱり食べることは彼のエネルギー源のひとつなんだろうなと思う。

先月、どしゃぶりの雨の中、映画館に大我さんを観に行った。好きな人の初主演映画を劇場に見に行けることが嬉しくて、ムビチケを握りしめて、泣いてもいいようにメガネにすっぴんで。「言えない秘密」は、大我さんのように生命の輝きと熱に満ちた映画だった。大我さんの演じる湊人くんは、暗いところで俯きながらじりじりと自分の中の炎と闘っているような、絶望や葛藤や焦燥では塞ぎきれない火種を抱えているような人に思えた。自分の炎を、熱を、持て余していた湊人くんは、雪乃に出会って清々しい光を放ち始める。雪乃の存在は湊人の中でピアノとごちゃまぜにされたまま、確かな熱を持って燃えていた。絶望や悲しみの色も濃い作品なのに、終始熱がほとばしっているのが不思議だった。悲しくなればなるほど、生きるということの輪郭がくっきりはっきり浮かび上がってくる感じ。熱烈なクリスマスがスマートフォンの中で熱を失う瞬間もあったのに、湊人の腕の中から喪われる熱もあったのに、そのすべてが出てきたばかりのポラロイドのフィルムのようにあたたかい。大我さんの放つ光の熱が、この映画にもうつっているのだと思った。

「ここに帰ってきて」が流れるエンディング、自分のぬるい涙とおかしいくらい熱を持った頬を感じながら、とても満ち足りていたし、お腹がぺこぺこに空いていた。雨のこともどうでもよくなった。大我さんの食に対する真っ直ぐな欲を、生きることに注ぐ熱量を、歌から、踊りから、演技から感じて、自分の身体や気持ちが影響されていく。それが心地いいなと思う。夏は食欲のない日ばかりだけど、強すぎる日差しにげんなりするけど、大我さんのことを思うと気合いが入るし、食欲はなくてもちゃんと食べようかなと思える。それが嬉しい。食べることを制限して痩せようとしたり、暑さを避けすぎたりするより、食べて、動いて、燃やしたぶんまた食べて、そんなふうに生きたい。今日、明日、何を食べたいか考えながら、大我さんが何を食べたのかに思いを馳せながら、長く、暑すぎる夏を乗り越えようと思う。